生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

書かれたという事実には善がある

ぼくが文学を好きなのは何もエンターテイメントだからではない。軽めの小説よりむしろ深刻な小説の方が好きなのだから娯楽を求めているのじゃない。娯楽なんでその場だけで消費されて、あえなく次は何となるだけだ。文学は消費されるものではない。何かといえば発見の旅という方が近い。一つの作品で得た感興が次の発見への導入となるような、好奇心の連鎖になるのだ。そこに道が出来ている。そうすると、何処か未開拓の領地に足を踏み入れる冒険が始まる。

ぼくは自国の歴史に無知だった。ところがある小説から、俄然日本の中世の混沌に惹かれるようになった。その時期本当に国(クニ)がメチャクチャになって荒れ果てた野蛮地帯が広がっていた。よくそんな所から市が立つようになったと思える。とにかく何かを食わなければ餓死して終わりとなれば、死に物狂いで生きるしかない。そうやって何かの偶然で住処を構えることが出来て、少しづつ集落が出来る。当然助け合わなければ、ちょっとした災害で死に絶えることになるだろう。よく世界は弱肉強食で強いものが生き残るイメージがあるが、弱いものこそ集団の牽引者になるんじゃないかと思うようになった。意外と日本人は弱いものを見捨てることが出来ないようだ。集団の中で弱いものが足を引っ張る。弱いものが行進の最後になるが、見捨てていくことは出来ないので弱いものに合わせて行くしかない。そういう進み方の方がこの地の先祖代々は多かったと思える。

どうだろうか、あまりにも性善説だろうか?でも文献に残された、書かれた歴史というものは残忍に終わることは出来ないという気がする。文学においては、ぎりぎりのところでハッピーエンドとなることで生き延びている気がする。そのようにしか生きられないのが人間の歴史だと思う。