生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

青春回帰がだんだん強くなる

十九歳のころ、なんて世界は優しくぼくを包んでくれていたことか、奇跡のようだ。ぼくが十九歳の時、世界は1972年だった。テルアビブ乱射事件で岡本公三がぼくのイノセンスを破壊したが、それはまだ遠くの出来事で半分夢心地のままでいられた。その頃ぼくの身の回りは不思議に解放された、自己表現に溢れた時代のエポックを迎えていた。セント・ヴィクトワール山の見える丘の家の離れは、自己表現を育てる繭の働きをした。その自己表現の妖精の一人が五輪真弓だった。

ぼくは離れにある部屋に家族から4年間の猶予を与えられて、下宿人のように住んでいた。父はほとんど話しかけることをせず、毎日黙々を仕事場に行って一人で働いていた。孤独な職人だった。母は綺麗好きで、ぼくが小さかった頃は仕事から帰ってきた父と学校から帰ってきたぼくの足をバケツに湯を張って洗っていた。仕事場で不要になった木材を鉈で割って薪にする仕事があって、主にぼくがやっていた。その薪で釜で飯を炊いたり洗濯用の湯を沸かしていた。母は毎日のように湯を入れて洗濯して楽しそうだった。昔の洗濯機は脱水機もなくゴムローラーの間に衣類を挟んで絞るタイプだった。そのゴムローラーをぼくが時々回すこともあり、その日常はとても楽しかった。

もう45年も前になるけど、ぼくはセント・ヴィクトワール山の見える丘の家の離れに住んでいた。将来画家になるつもりもないのに、芸術家気どりのボヘミアンだった。むき出しの畳1畳分のベニア板を壁に立てかけて、街で拾ったビラやジャズ喫茶にあったポスターを貼り付けていた。下手くそなランボーのような詩を書いた紙片も貼った。隣の家には医学部の女子大生が下宿していた。ぼくの部屋の北側の窓を開けるとちょうど彼女の部屋が向かい側に見えた。ぼくは時々自慢のレコードを窓を開けてかけていた。ショパンホロヴィッツの演奏版が気に入っていて、マズルカポロネーズを彼女に聴かせていた。でもほとんど反応がなかった。クラシックじゃダメなのかとジャズもかけてみた。その頃ジャズは次第にフュージョンっぽくなっていて、マッコイは「Song foy my lady」を出していてそれをよくかけて聴いていた。ある時、向こう側の窓が大きく開いていた。多分空気を入れ替えるつもりで開け放していたのだろう。ぼくは鉢合わせするのではないかと恐れたが、部屋の中を覗かないわけにはいかなかった。綺麗に整頓されていたが、もちろん彼女はいなかった。出かけていなかったのだろうか。それにしては窓を締めていかなかったのは物騒ではないか。あの頃の彼女は窓の向こうの存在をどう感じていたのだろうか?確かに今から45年前には在ったという事実はあるはずなのに、彼女の記憶に残る可能性はほとんどゼロだろう。

ぼくは間違っているかもしれないと呟いていた。こんな風に何もしないで考え込んでばかりいてはいずれ頭がおかしくなって、日常生活がまともに送れなくなるんじゃないかという気がふとする。昨夜はバッハのシャコンヌヒラリー・ハーンの演奏で聴いていて、この音色と調べが甘くてもの悲しい二十歳の頃の気分を思い起こしてくれていた。この時間がずっと続いてもう一度あの頃にそのまま戻れる手立てはないものかと考えて、小説がそれを実現してくれたらどんなにいいだろうと夢想していたのだった。

初めて書くことを始めた時、自由な意識の流れを生み出していることに心地よさを感じた。「界」のなかにいる時、心地いいという感覚の有無が決め手になる。高校1年の世界文学全集を順番に読み始めていった頃や、大学1年になって「丘を見渡せる離れ」に自分の部屋を持って無為に過ごした頃に、「界」の原型を作ったと思える。世界文学全集と明るい太陽に照らされた丘を眺める部屋で、自由な意識が作られたと今振り返ってみてはっきりわかる。本と明るい部屋が自分の居場所なのか、それ以外の場所では居心地が悪くて絶えず自分を他者に適用させようとしていたのだと思える、、、

小学校の間は図画工作がずっと「5」だったから、絵もうまかったのだろうがそれが楽しかったわけではなく、なんとなく描いているうちに出来上がるのだった。今でも不思議に思い出すのは、物語の絵を描く授業で、「ガリバー旅行記」のガリバーを小人の住民に捕らえられて全身縛られている絵を畳半畳ぐらいの大きさに描いたことだ。何も見ずに想像でスラスラと描いていて、その時の感触だけは微かに残っている。一人じゃなくて二、三人で分担して描いたかもしれないが主なところはぼくが描いていた。クロッキーの時は線を運ぶ手が勝手に動くようだった。あれはスピードが大事だと言われたので夢中だったのだろうと思う。、、、そういうわけで大学は美大を受験して入ったのだが、絵を描きたかったわけではなかった。その頃時代はのんびりしていて4年間遊んでやろうとみんなしているように感じていた。だがそんなに甘くなかったことが後になって分かるのだが、、、

金沢の市立美術学校に入学した年は、終戦後間も無く陸軍兵器庫だったレンガ造りの建物を改造して建てられた旧校舎の方に半年だけ在籍できた、珍しい年だった。中は薄暗い所もあったが、何しろ造りが堅牢で重々しかった。伝統を感じられ自由な雰囲気に溢れていて芸術を気取るにはもってこいの環境だった。半年しか居られなかったが、ぼくは移転先の金大医学部近くの校舎より好きだった。その時ぼくは19歳になったばかりだった。その頃の学生気質というのは、大学はレジャーランドであって学問の府ではないという、今から思えばとんでもない勘違い学生が主流であった。日本の高度成長期が続いた幸せな時代に遭遇していた。経済がまあまあだと気分が明るくなるし、テレビも型破り番組が多かった。ぼくは特別絵が上手かった訳ではなく、美大の自由な芸術家仲間に入りたかっただけだったのかもしれない。

ぼくが美大を受験する前の年は、県内でも進学校として知られる高校にもかかわらず美大に入学した先輩が14,5人いた時代だった。ほとんどがインダストリアルやコマーシャルデザインの方で、油や日本画や工芸の方には進まなかったように思う。(途中で転校した先輩もいたらしい)コマーシャルでも横尾忠則糸井重里のようなスターが活躍し始める頃で、社会の仕組みに取り込まれない熱い空気感も感じられた頃だった。ユーミン多摩美大、村上龍武蔵美出身で、必ずしも美大だから美術関係の進路に進むとは限らないのではあるが、地方の美大からでは、音楽や文学関係の進路に進むには才能が多方面に創発される刺激に乏しかったかもしれない。ぼくは受験選択を間違ったかもしれないという思いから自分を懐柔させる曖昧さに逃げ込んだのだった。専攻科のデザインに縛られずに、つまりはデザイナーの道を放棄して芸術一般のフリーパスポートを手にしたことにして、片っ端から興味のあるものをかじることにした。ジョン・ケージ高橋悠治の現代音楽を聴き、マルセル・デュシャンフランク・ステラやデ・クーニングなどの現代美術に触れるようになり、シュールレアリスムやロシアフォルマリズムの文学や美術「運動」というものにも興味を持った。針生一郎美術手帖に載っている評論家の論文にも刺激を受けていた。つまりはあの時代が吐き出して発散していたエネルギーを貪欲に吸収しようとしていた。その頃のぼくは心に飢餓を抱えていたので時代のカオスで満たす必要があったのだと、今では思っている。