生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

日常と非日常

昨日はよく晴れて気温も高かった。桜は満開になりお花見に母を連れて行こうと朝迎えに行くと、物憂がって家から出たくないと言ってキャンセルになった。それでは二人で行こうかと妻を誘ってみるとじゃあということになって、人混みはぼくも妻も嫌いなので、犀川沿いの河川敷の桜並木をお花見することになった。月曜なので混雑するほどではなかったが、メインのところではそこそこ賑わっていた。このように書いて普通にお花見を楽しんだことにすればいいのかもしれないが、ところがぼくの気分はどういうわけか沈んできたのだった。河川敷の東屋に幸せそうにしている家族連れの側に、一人で座って佇んでいたお婆ちゃんを横目で見て通り過ぎた。丸い大きな背中を向けてベンチに一人で俯いて座っていた中年男性が目に留まった。その時の感じがあとに引いた。微妙な賑わいに紛れ込んだ寂寥というべきか、ぼくにはその河川敷が心の隙に取り憑くような不安を与えるようだった。こんな筈ではなかったという思いで帰ってきて、一日経って今まで頭の隅に残り続けていた。その気落ちの原因がようやく分かった気がした。それはおそらく誰も分かってくれないだろう。ぼくのこれまでの日常と非日常のバランスが最近変わってきた、と言っても理解してもらえる自信がない。お花見は日常で、小説の世界が非日常なのだが、後者の方が大きくなってきて前者を凌駕するようになってきたと思えて、昨日の気落ちの原因に納得できたのだった。つまりぼくは小説の世界に住んでいると思える方が幸せで、現実の日常は何処か寂しさを感じるようになったと思える。これはおそらく、先日来からブログに書いている地域の公的な読書会を作りたいと計画を持ったことの反動だと思える。現実の活動的な目標に無意識的に反対していると考えられる。そっちの方向じゃないよと無意識は教えている。そしていつも無意識の方が勝つようにできている。