生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

本を読むことの原点に向かって

この投稿は今日だけに終わらず継続して書き足していくことにする。まず初めにこのタイトルで書いていきたいことは、地域読書会の創生についてだ。現在は公民館サークルの一つでしかないが、いかに公共性のある読書会として生まれ変われるかを追求したい。野々市市という地域に一つの読書会があることの意味を追求していきたい。

本を読む環境として図書館というハードがあるが、本を読むというソフトをいかに地域に定着させるかが課題として立てられる。図書館という空間は現在著しく魅力を再生していると思う。全国的な流れのようにも思える。今まで本に馴染みがなかった人をいかに読書に誘うか、様々な工夫が各地の図書館で行われている。石川県立図書館もその一つだ。ハード環境は素晴らしく発展した。

次は本を読むという行為の原点に向かって、今まで目に見えなかった領域を見えるようにしたい。 本を読むことの原点に何があるかといえば、本を読むことで自分のこころがひらけてきて「楽しい」ということがまずある。これは何よりも大切なことだ。その楽しさは他の事で楽しいと感じることと何処か違って独特のものだ。ほとんで「学ぶ」ことの楽しさと共通するが、知識が身につく以上の興奮や感動があり、自分が主人公になってあらゆる言葉の世界を駆け巡る自由や冒険を同時進行で疑似体験できる。

次にあるのは楽しかったことを「伝える」意欲が生まれることだ。言わば、言葉の魅力に気づいてそれを使いたくなることだ。誰かに言葉で自分の感じた楽しさを伝えたくなる、その衝動を本を読むことの原点に挙げておきたいと思う。 次に取り上げたいのは、作者とのあるいは登場人物との「出会い」である。小林秀雄はどこかで、自分のことが書かれていると感じられた小説との出会いはほとんど僥倖であると書いていたと思う。もしそんな作者と本で出会ったなら、全集が出ていれば全集を全て読め、と言っている。小説だけでなく手紙や対談集や講演記録など、全て読んでみることを勧めている。

本を読むことの中の小説を読むことについて考えてみたい。小説を読むことは、端的に言って、作者の生きたことを想像的に体験することだ。読むことは想像的な体験なのだ。想像的とはどんな内容を持っているのかといえば、端的にウソの話を本当らしく展開することだと思える。それを体験することは、ある意味「騙されている」ことになる。自分が身を入れて騙されていたことがわかると、不思議なことに感心したり感動したりする。だから本質的に受動的な行為なのだろう。受動して騙されたことに何か生きる意味を感じて、探ろうとするかも知れない。その探求が読書から得るものだと思える。

読むことと書くことは相互的でそれぞれ分離することはできない、と思われる。読むことの経験がなく、いきなり書くことは不可能である。書いたものがあるから読めるのである。書くことは読んだのちに発生する個人の行為だと思う。それは作家が芸術家として評価されるだけの才能の領域を開拓する。書くということは読むこと以上に才能が求められるように思える。読むという行為そのものを取り出すことはできない。読むことも言葉にして初めて自分以外の他者に実態を理解させることができる。読んだという行為を書くことで初めて他者に分からせることができる。

さて、書くという行為はどんなところでなされることなのだろうか?作家はどこで書いているのだろうか?創作の秘密の場所はどこなのだろうか? ぼくにはそこは暗くて狭い場所だと思える。村上春樹の小説によく登場する、井戸の底、のように。 読書会は公益団体かと市の生涯学習課に問い合わせに行った。読書会は現在、市の公民館へサークル申請して所属が認められている。公民館にある部屋はサークルに所属していれば無料で借りられる。一般の人は数人の会の場合、1時間400円程度の部屋使用料を払うことになっている。

これが県立図書館になるとサークルとしての登録なしに、都度無料で数人程度が集まれる部屋が借りられる。だから県立図書館では県外の観光客でも無料で部屋が借りられる。本を読むことが趣味でそんな人が集まって話をするだけならサークル活動と見なされて、公益団体とは見なされない。私が志向する市民の、あるいは地域の読書会は趣味をどこかで超える「事業」を計画し実施しなければならない。

私が今所属している「野々市市読書会連絡協議会」は、講演会と文学散歩の開催と県の図書館大会への参加を会則に明記している。 一昨日は、いきなり読書会に飛んでしまっていた。読書と読書会の関係については考察しておかなければならない。本を単独で読むのと複数で読むのとでは本質的な違いがある。経験から言えば、複数で読んだ方が学びがある。一人の読み取りには様々な「偏向」がある。一人では見えなかったところが仲間の読み取りから見えることで発見がある。それは見落とした自分の気づきにもなって「楽しい」。そもそもそれぞれに「偏向」を確認し合うことに読書会の意味があるかも知れない。

私はここに公共性が芽生えていると思っている。だから前回に戻るが、読書会には公益性があって、公益団体の資格が私はあると思っている。しかし、市の生涯学習課は認めないのである。これはここにきて、承認という社会的マターに問題が発展する。相互承認は社会的マターであり、ヘーゲルは自由の相互承認を哲学の問題にした。だから読書会の本質には社会的に承認を得る、極めて実現が難しいプロセスが横たわっている、と私は見ている。

本を読むことの原点にあることで一つ大きな側面を忘れていた。それは鑑賞するということである。読んでどんな感想を持つかを問う前に、言葉にならない感じるままに任せるという側面があるのだ。厳密にいうと、言葉にする以前の感興の状態があり、読むことで心に生じる動揺や興奮や嫌な感じなどの現象が生じているはずなのだ。読み取ることの中にはなくて、ある面では対立する行為かも知れない。意識的な働きではなくて無意識下の働きがあるはずで、こちらの方が根深くてより真実に近いかも知れない。作者である作家は創造者であり、ある苦悩の体験を書くのであるから、読者もその体験に降りて行って感じ取らなければ読んだことにならない、というべきである。