生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

書く習慣のために書く

文章を書くことで私は何かを達成させたいと考えている。私が自由に息をし、考えまたは想像し、記録し論評するような場所を書くことで確保したい。自由にというのは、今という現実の生活とか地位に関係なく遮断されてということだ。私は「そこ」では何にでもなれるし、どこからでも始められる。例えば、スペイン旅行記から始めてもよいし、今気に懸かっていることをとりあえず整理して片付けるのでもいいし、ここ一ヶ月を振り返って新たに得た仕事上の着想でもいい。これまで私はそれらを「日記」(毎日ではないので日記とはいえないが)という文章形式で気ままに書いてきた。それは書き留めることで私という存在が文章に対象化され、その対象化された自分に逢いにいくことをしていたのかもしれない。今書こうとしているのは、「気まま」ではなく、「達成」である。つまり将来に備えた準備やひとつの向上心を育てようとする意図がある。そうだ、わたしは書く能力をつけ書くことを習慣にしたいのだ。例えば定年後、読書だけでは絶対に行き詰まるだろうし、書くことをしなければ世界が広がっていかないという確信がある。今から書くことを習慣化してどの程度将来に備えられるか試してみたいというのが、これまでの日記での書く作業との違いである。

ここまで書いてきて実は既に達成されていることがある。一つは自分の文体というものができている。文体とは一番書きやすく、書いたものを自分が読んでしっくりする文章形式のことだ。言わばテンプレートであり、いつでも書き続けられる書くことの再現性を保証するものだ。

二つ目は、書くことが自由をもたらす感じを既に味わったということだ。書くことが意識に変化を与え、大げさになってしまうが周りの景色を変えてしまう実感が得られる。色がやや鮮明になり、音もしっかり聞こえるようになる。実はさっき、先の段落までの文章を書いた後、車を運転してその景色の変化を体感してきたところだ。

三つ目は、当たり前のことだが自分がそれを読むことができるということである。自分が書いたものを読めることで自分ってこういう奴なんだというイメージを持つことができる。それをブログなんかに載せれば、自分だけでなく誰かが読んでくれて筆者について好悪の印象を伝えることになる。これは書き続けることで一層確かな印象を形作ることになる。

しかし一番大切なのは書く事が楽しいという感覚だろう。この感覚を自分は誰かに伝えたいと思う。同じ感覚を持つ人と出会えたり、自分もその感覚を味わいたくなって書いてみようとする人と出会いたいと思う。この思いつきが生まれたきっかけは、斉藤孝の「書く力」という本と出会ったからだ。「まず原稿用紙十枚」を書けるようになることがとりあえず目標になる。その量をこなすためには何でも書いていいということだし、どんな方法でもいいということだ。

自分の場合は、定年までと定年後の生活をどのように設計するかがどうもテーマとなるようである。それがとりあえずの文章量達成の一番のネタになりそうだからである。
あまり、深く論理的に考えて書くことは量をこなすには不向きなような気がするので、何か「流れのようなもの」を意識して書いてみようかと思う。それが唯一の目論見といえばいえるものだ。

さて、自分の定年後の生活をイメージする時にまず出てくるのが「読書」である。何故「読書」がでてきたのかというのは、定年にならないと本が思いっきり読めないという思いがあるからだ。いわゆる読書三昧が許されるのは会社を離れてでないと無理だという実感がある。

逆にいうと読書三昧という環境とか、その精神的自由感を味わいたいために定年という将来を待ち望んでいるところがある。自分 の人生の中でこの「読書三昧」と「精神的自由感」を一時期満喫していたことがある。私の高校時代である。私は受験勉強を嫌って本ばかり読んでいた。私に とってその時が乱読の時期で、よく作家が年少の頃の乱読体験を披瀝しているが、私は作家程の読書量はなく、今の職業も書くこととは特別関係ないということ からも推測できるように、ごく普通の乱読コースである。つまり、世界文学全集を片っ端から読んだのである。その全集というのは比較的長篇の小説が多く、私の読書傾向として長篇好みがあるのはその時の読書経験による。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」から始まり、ヘルマンヘッセの「車輪の下」「ナル チスとゴルトムント」、「赤と黒トルストイの「復活」、ドストエフスキーの「罪と罰」「未成年」「白痴」「悪霊」、ロマンロランの 「ジャンクリストフ」「魅せられたる魂」、ジャン・ジャック・ルソーの「孤独な散歩者の夢想」、カミユの「異邦人」「ペスト」、サマセットモームの「月と 六ペンス」、と順番はこのとおりか記憶が定かではないが、約一年半程の期間はこの乱読の小説とともに私の高校生活があったのである。

今、「小説とともに私の高校生活があった」と書いたが、これは単にレトリック(修辞)として書いたのではない。実際そのような生活であった気が今この歳になって振り返ってみるとするから、事実としてそうであったと書いたのである。

つまり、必要以上に現実を深刻に考えたり、恋愛至上主義になって女性崇拝的な片思いの結果、失愛に苦しんだり、逆に優柔不断 でつきあってくれた女の子を苦しめてしまったり、天真爛漫の時期があるかとおもうと自責の念で極度に落ち込んだりと、決して平和な心境にはなれずに過ごし た記憶が今でも断片的に思いおこされる。私は幾分ラスコールニコフに似ていたし、ロッテのような女性に憧れ、ムルソー気取りで夏休みを過ごし、ジュリア ン・ソレルのような自信家になってラブレターを書いて赤恥をかき、ジャン・クリストフとともに長く暗い冬を情熱的に過ごし、カチューシャのようなちょっと 斜視の女性に恋して一度だけデートしてもらったり、白樺派のようにヒューマニズムが最大の価値だと回覧日誌に書き込んで先生にからか われたり、「悪霊」に出てくる政治活動家の議論のように学生運動を自分の内面に引き込んでしまって軽いノイローゼになり一週間不登校を経験したり、何かに ずっと取り付かれていたかのように高校生時代を過ごしたのだった。

今思うと何故これ程までに読んだ小説に影響されて実生活が振り回せれてしまったのか、不思議に思える。実生活が受験勉強とい う現実離れした学生身分だったからというのはあるだろうが、それでもそのころの私は無知ゆえに大胆な行動がよくとれたと感心するくらいである。安定した生活というものにまだ出会っていなかったし、多分心は荒れていたと思う。

かつて私はこの自分の高校時代を小説に書けないかやってみようとして、さっぱり糸口がつかめず自分の才能の無さに失望したことがあったが、今は小説の前にそのころの自分の精神状態を心理分析する必要があるのではないかと思っている。