生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

講演依頼のためのノート1

今度野々市市の読書会主催で講演会を開くことになって、講師に講演依頼の手紙を出そうと思っている。講師は83歳で初めて小説を書き、昨年金沢市の市民文学賞を受賞された松村昌子さんで、電話をして既に講師を引き受けて頂いている。ただ、どんな講演をしていただきたいかは、はっきりとした要望とか趣旨は手紙でないと伝えられないと思って後日連絡しますとしていた。電話では聴衆者のほとんどは読書会の会員で、講演会には著書の『姫ヶ生水』を読んで参加するようにする、とお伝えした。

電話の時は私はまだ著書を読んでいなかった。要望とか趣旨は読了した上でないと定まらないと考えていたわけである。順番がおかしいのは承知の上で、そうしないと会場が押さえられないし、読書会の上部団体への申請も済ませておく必要があったのである。

さて昨日長編『姫ヶ生水』を読了してまず感想を述べてみたい。私の読書会メンバーの中で既に読了している人が4名ほどいた。押し並べて引き込まれるように一気に読んだと言っていたが、私は引き込まれた章はあったものの一気に全てを読んだわけではなかった。電話の時、松村さんを先生とお呼びした時とても謙遜されて、そんなんじゃありませんと何回も否定されたが、文体自体も一介の「おばあちゃん」が書いたという設定であった。意図的というより、ある意味素人小説でいいと割り切っているようにも感じられた。先生や作家という地位を嫌う矜持を感じもした。だから敢えて等身大を守っているところが、高齢者がほとんどの私の読書会メンバーを引き込んだ最大の要因だと思える。

それでも難しい漢字を使ったり、小説中に後世に残す綴本の文章をはさんだり(作中作という入れ子構造)という設定をしていて、決して分かりやすくが一義ではないと思えた。文学への愛もあると思った。主人公の「松」と3人の娘の生涯を描いた大河小説とも言えるし、霞谷という村の成り立ちと、「姫ヶ生水」にまつわる伝説を物語にして再生する時代小説、あるいは(世界文学に通じる)共同体の物語と解釈できると思う。それは作家になろうという大袈裟な野望があって書いているのではないからこそ、書けたのではないかと思われた。もし作家になろうという意識があったら、83歳で初めて書くというのはあまりにも遅すぎるわけである。

ところで私が興味を持ったのもそのことだった。83歳で初めて小説が書けたという事実、それも577ページという長編を5年をかけて自費出版に至るという快挙がある。また自費出版が目に留まって、金沢の泉鏡花記念市民文学賞を受賞する、結果も付いてきたのである。これだけでもニュースになり、講演をお願いする理由になる、、、と私は思ったのだがご本人はそうは思われず、極めて謙虚で私などがお話しできることはありませんと(最初は)断られたのだった。(続く)