生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

自己欺瞞をやめる

このブログのテーマである、生きるリアルさを取り戻すためにやる事の始めは、自己欺瞞をやめることである。自分に対してあまりにも長い間ウソをついていると自己欺瞞が身について何が自分の本当か分からなくなる。リアルさの回復とはその自己欺瞞を打ち破ることだ。

さて自己欺瞞の特徴は、欺瞞一般が他人に対してやることに対して、文字どおり自分に対してやるということだ。自分にウソをつくということを何故やるのか。真実の自分から目をそらして、あたかも別人のように振る舞うことにするのはいったいどういうメリットがあるのだろうか?そもそも真実の自分をなぜ否定しなければならないのか。

私は定年退職してから昔の自分を遡行的にどんどん突き進んで回想してきたが、そこで気づくことがしばしばある。例えば小学生の時、無知であることがとても恥ずかしかった記憶がある。風邪で休んだ日の図画工作で「だるま」を粘土で作る授業があって、数日後ぼくだけが「だるま」を家で作って提出することになった。ぼくは加賀人形の「だるま」を知らず、雪だるまを提出してしまったのである。その時の消えてしまいたいくらいの恥ずかしさに幼児のように泣き出していた。それがトラウマになって、世間知らずでいることの恐怖が取りついてしまったのだ。思い出すとその後、分厚い百科事典を木製の椅子の下の底台に置いていた。何かわからないことがあると、すぐに百科事典で調べていたらしい。

私の母の実家は加賀の田舎で、弟が生まれることが分かるとしばらくその田舎で過ごすことになる。今日「姫ヶ生水」という小説を読んで、悪阻やお産が近づいて苦しむ母親を見せないために第一子を里に出す風習があったというくだりがあって、その時の事情を思い出したのだった。私は金沢の子で田舎を馬鹿にしていた。田舎の子になるのが嫌だった気がする。

自己欺瞞の話から私の幼少の頃の話になったが、私は世間知らずで田舎者の自分が真実で、そういう自分を認めたくないばかりにウソをついていたことに気づいた。私は田舎者でウスノロだった。自己欺瞞をやめるとは、とりあえずそれを認めることだ。