生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

生涯教育とは

おそらく「生涯教育」という言葉は行政用語だと思う。私たちの読書会は、野々市市と石川県の生涯教育課の管轄下にあるらしい。図書館協議会という団体のメンバーに市の生涯教育課から推薦を受け、会議に参加して意見を述べると報酬が得られる。図書館からは何がしかの本を借りてほとんど毎日読んでいる。意見を求められれば読書経験から読書による自己教育の価値みたいなことを発言している。何を読むべきかに公共性があるとの立場を示しているので、与えられた役割は果たしていると自認している。しかし、改めて「生涯教育」を考えてみることはして来なかった。そもそも教育の目的は何で、教育は生涯続けられなければならないのか、自分なりの解答はまだない。

先日、NHKの朝のテレビ小説「虎に翼」で、法律の定義を寅子が述べるシーンがあった。「法とは、泉の水のようなもの」という定義があった。これにはドラマといって馬鹿にできないくらい感心した。源泉なのかと腑に落ちた。混じり気なしで守るべき場というか、単なる言葉でなく生きている定義だった。

そのように「生涯教育」も定義する必要がある。人生を誤らないための判断と意志を育てるもの、と私は定義したい。学ぶとは探求であり、得たものを応用することであり、本質的に公共性に与するものであると思う。しかし、何か言い当ててない感じがする。一言で言えないものか?

学ぶのは人間だけのような気がする。自然や生物は学ぶ必要がなく、すでに必要なものや事は備わっている。だから、学ぶのは欠如を埋める事なのだ。欠けてる存在の一生を賭けた回復が「生涯教育」だ、というのが私の定義である。