生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

世界精神=ヘーゲルを想定して

計画を立ててその通りやる、という方法がいいのか、行き当たりばったりだけどその時やりたいと思うことをやる方法(この場合は方法でさえないかもしれないが)がいいのか、これまで何度も迷ってきている。計画が必要と思ったのは後者のやり方では結局何者にもなれないと思ったからだが、そもそも何者かにならないといけないのかという根本的な疑問に突き当たってしまう。もう38年間も会社勤めをして定年後は何をしてもいいはずで、今更職を求めて働かずともいいわけなのに、何かの存在に自分がなろうとする指向性はどうしたものだろうか?だが、私が立てた計画なるものは単に何をやっても長続きしないことの対策として考えたものだった。

長続きしないのは私の思考の一貫性だった。思考というより思想かもしれない。サルトルマルクスヘーゲルというように大雑把だが、私の思想の拠り所が移ってきている。この流れを自分なりに反省してみると、底流に私の社会性の変化があるような気がする。学生時代から経験を積むうちに社会と自分の関係がそれなりに発展してきたと言えるかもしれない。だんだん社会というか世間というか他人というか、いぜれにせよ自分の周囲がどういうものか分かってきたと言えるかもしれない。内向から外向への経験の蓄積が思考の変化をもたらしていると思える。マルクスは壮大な幻想だったかもしれない。正しさはあるけれども社会変革が闘争によって可能だとするのは、人間を楽天的に見過ぎているかもしれない。そもそも自分を離れて人間という範疇を想定することに空隙があり過ぎる気がする。ヘーゲルは哲学という世界を体系として完成させることで、現実世界を逆に支配下に置くことができたのかもしれない。ヘーゲルの方がマルクスより人間の見方が厳密で厳しい気がする。人間を知るには悪を知る必要がある。歴史は悪によって動き、より大きな悪によって発展するという方が真実に近いかもしれない。現代の世界は、アメリカとロシアとイスラエルと中国の、悪による攻防戦と見ることもできる。このような世界観も自分の思考性が反映していて、自分とは切り離せない。だから大きなことも小さなことも繋がっている。

、、、ということは私の計画をめぐる迷いも、現代世界の悪の交戦に繋がっているのかもしれない。