生きるリアルさの回復のために

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定年退職後の危機

白々と夜が明けて来る、薄暗い部屋の中で一人で過ごすひと時が始まる。一人の時間に満たされて、お湯を沸かしてコーヒーを淹れるだけのルーティンにさえ気分がウキウキするのだった。新聞を読んだりテレビをつけたりなんかしたらぶち壊しだ。完全に外界から遮断されるから自由なのだ。寒くも暑くもなく、体温と空気が一体化して部屋の中に包まれている感覚が好きだった。ユリシーズの「塔」の中の活動的な朝の雰囲気をちらっと思い浮かべて、モリーがまだ寝ているように、ぼくの妻も寝ていると呟いてみる。耳を澄ますと窓ガラス越しに小鳥のさえずりが小さく聞こえている。まだ朝が始まらない。もう少しすると子供達が通学で、ぼくの家の周りを通り過ぎていく。斜め後ろのYさん宅は朝早くに出ていく。その車の音を妻はまどろみの中で聴くが決して起きようとしない。まどろんでいる時間が彼女には最高らしい。ぼくは目覚めて、そうっと起き出して、明かりをつけずに部屋の中にぼんやりしているのだった。二人で簡単な朝食を食べるまでの、何もしない時間を満喫している。

サラリーマン人生を三十八年間送って、ぼくにはよく我慢し通したものだという以外に感慨がなかった。よかったのは厚生年金が少なくてももらえることだ。妻の年金と合わせれば普通の生活がよっぽどの事故がない限り送れそうだった。その安心感は、今のぼくには精神的な財産だった。よく言われるようにサラリーマンは社畜であり、個人の能力というものは必要がない、社畜の能力だけがあればよいと振り返ってみるとそう思ったのだった。感性が敏感だと屈辱に身悶えすることになるから、できるだけ鈍感になろうとさえした。給料の差や人事の不公平感に感情がとらわれたりすること自体が許せないので、鈍感になる方が手っ取り早いのだった。会社を辞める方が賢明だったかもしれないが、ぼくは器用な方ではなかったので面倒くさくなって流される方を結果的に選んでしまった。そしてますます社畜になっていくわけだが、強制収容所よりはマシだと思って耐えてきた。マシというのはわずかながら給料がもらえ、社会保険や定年までいれば退職金がもらえたことだ。だからできるだけ無個性で働くのと、少々の奴隷的な過酷な環境にも耐えられる肉体と精神があれば定年まで会社に居られるというわけだ。だが、会社を甘く見てはいけない。ぼくにとっては毎日が戦いだった。坂口安吾も書いていたが、一番悲惨なことは落伍者になって貧乏になることではなく、それによって自信を失うことだ、というのが信条だった。くたばらなければいいのだ。定年退職してようやく過酷な状態から解放されて息をできるようになった、というくらいに今を考えている。

ぼくの人生は多少の振幅はあっても、今となっては良くも悪くもなく平凡そのものだった。だけど、平凡に満足するには非凡なものがいる。平凡な日常に満たされない思いが募ってくるのは致し方ないのだろう。昨日はまだ変化があった方だ。金沢の少し山の方に入った別所というところに美味しい蕎麦屋があって、昼は妻と一緒に手打ち蕎麦を食べた。ぼくは鴨南蛮で妻は山菜そばを注文した。鴨肉は六切れも入っていて柔らかだった。山菜は近くの山から採って来たものだと思われた。出汁が美味しく、湯飲みに蕎麦湯を足して二杯飲んだ。満足して出て、別所から犀川沿いの大桑にある「ぐるぐる広場」まで行って車を止め、犀川河川敷を散歩した。ランニングやウォーキングや散歩をする人にちょうど良い間隔ですれちがった。時間はゆっくり流れていた。一時間ほど散歩して、ケーキを買って帰宅した。ストロベリーパイをコーヒーと一緒に食べた。このストロベリーパイは、薄いパイ生地の上にのったジャム状より少し柔らかめのイチゴが、生クリームとよく合うので、いつも買っているものだ。こんな風に午後を過ごしたのに、ぼくは終わってしまうとなんだか満たされていないのに気づいた。「どうしてだろう。心が贅沢になってしまったのだろうか。」と呟いた。ドラマのような出来事がもどって来て欲しい、と思った。

あれはぼくが定年後のまだ何も起こらない日常に慣れていなかった頃だった。

最初はぼくから電話したのだった。職場にかけたのでほんの少ししか事務的に話しただけで、本当に話したかったことはメールにすることに決めていたような感じになった。その日の夜に携帯の番号にメールして、長いメールのためにお互いのパソコンのメールアドレスを教えあった。電話したのは昔をどうしても思い出したかったからだ。もう時効になって普通に話ができそうに思ったからだった。手紙ではないのでメールのやり取りは文通とは言わないのかもしれないが、彼女と一年くらい毎日のようにメールで文通していた。その頃、ぼくの母親が黄斑変性という目の病気で手術することになった前日、実家に泊まり込んだ時も携帯にぼくの母を気遣うメールをくれていて、その時のメールは心温まる親密なものになった。実際彼女のメールに書かれる言葉には熱がこもっていた。それは彼女自身の体温から来るもののように感じられた。

彼女はぼくが二十六の時に結婚を申し込んだ女性だった。高校三年の時のクラスメートで結局は振られてしまうが、東京と金沢で遠距離恋愛をしていたこともあった。今はもう四十年以上経っていて思い出のひとつにすぎないのだが、その女性の面影を通してぼく自身の青春を再発見し、もう一度架空の人生を構築してみたいという欲求が生まれたのだった。青春時の充実感を思い出すだけで再現は無理なわけで、所詮は無駄な努力になるのは分かっていた。けれど今問いかけてみると、無駄ではなかったという声が聞こえてくるのだった。全てが終わってみて、結局は彼女に逢うまでに進んでしまったことは必然だったように思える。確かにぼくの人生は自分に戻ってきたのだった。それほどサラリーマン生活というのは自分を殺して、自分を見失っていたということに彼女に逢ったことで気付かされた。彼女は長いブランクを感じさせず若々しかったし、青春の面影は残っていた。つまり変わらないものを持ち続けていた。それに触れられただけでも救われた想いがするのだった。

今から思えばあの時はタイミングが悪すぎた。というか、タイミングなどおかまいなしに一方的にぶつけただけだった。彼女にしてみれば高校卒業以来東京に出てぼくとは長らく離れていたのだから、そんなこと突然に言われてもぼくとの結婚なんて想像できなかったことだろう。その当時は何か精神的に追い詰められていた。結婚しなきゃいけないように思い込まされていたのだ。どうしてだろう。今ならいくらでも時間をかけてその理由を探れる。何しろ定年退職してから時間なら有り余るほどあるのだから。

もう少し時間をかけて、あの当時ゆっくり彼女と付き合っていたら違った人生が送れたのじゃないかという思いつきが、結婚を申し込んでから三十九年後に、結婚して長男がもう成人になっている彼女の職場に大胆にも電話をかけさせたのだった。それは妻には内緒にしていた。妻はまだ定年前で働いていた。妻が会社にいる間はぼくは一人で自分の青春を振り返ろうとしていたのだ。

妻に内緒にしていたのはよくなかった。別に話しておいてもよかったのだ。金沢での同窓会の時に昔を思い出して懐かしくなって、今度東京で同窓会があるらしいくらいのことを話してもおいてもよかったかもしれない。しかし妻の性格だったらわざわざ東京の同窓会なんかにいく必要はない、とにべもなく宣告すると思える。妻の勘は本能と結びついているので、ぼくに後ろめたいものを感じると何かあると気づいてしまうのだ。そしてぼくは確かに東京に行く時後ろめたさを感じていた。でもあの時は定年後の空白感に苛まれていたこともあり、ぼく自身の企ての方が優っていた。

定年退職して居場所がなく自分がどこに居たらいいか分からなくなった時、青春に帰る選択は正しかったように思えた。おそらくぼくと同じようにサラリーマンだった人は、会社という組織を個人より優先させ、代わりはいくらもいるぞと脅されながら頑張ってきたと思う。自分がすでに自分にとって他人になってしまっていたという感覚にほとんどの人は気がついていない。ぼくにはそれが分かった。どうしてそのことが分かるかというと、自分の企てが招いた最悪の事態を経験して、自分が大切にされたことがわかったからだ。長い長いあいだ、ずっと自分が大切にされずにきていたことに気づいたのは、幸いなことに思いがけなく自分が大切にされたからだった。一人の人間として、一人の男として受け止められること。二人の女性を苦しめたことでやっと分かったのだ。自分のために苦しんでくれたことが分かった時、どうしようもない愛しさと同時に嬉しさが湧いてきて、ぼくはどんな仕打ちも罰も喜んで耐え忍ぶことができた。兎にも角にも感情はそれを求め、ぼくが与えてしまった傷はぼくのものだったから、、、