自分のためにではなく、期せずして私という人間を知って同じ世界と時代を生きることになった人々のために、自分のできることをする生き方を模索している。それは何かを考えるだけでも退屈ですぐに飽きてしまう私を何がしか働かせることになる。70年生きてきて今も贅沢は出来なくても、好きなように生きることができている。少なくとも感覚的には自由に生きられている。移動の自由がある。働く自由と働かない自由を選択できる。立派に生きようと自分を鼓舞して生きることも、ダメ人間の自分を甘やかして生きることもできる。
毎日ブログを書くように自分に課すことも出来るし、もう飽きたと投げ出すこともできる。眠くなれば昼寝をしたって誰からも咎められない。そのような「自由」の状態からある一つの企てを生み出す時期に今、来ている気がする。それは読書または小説を中心とした文学の公共性を問おうとする企てだ。すでに定年後地域の読書会に入って8年経って私はそれを意識下では問い始めていた。
文学ないしは小説は個人のものだという確信がある。小説を書くのも小説を読むのも一人でしているから個人だという、一見当たり前に見えることがその機能を詳しくみていくと個人を越えるものに気づく。小説は出版されなければほとんど読まれず、日の目を見ることはない。出版にはもちろん多くの人が関わる。読んでいる個人はある期間内には多数となる。多くの個人が読んで評価が高まればいずれ名作と呼ばれるようになる。既に名作と呼ばれる古典となった著作は多数存在する。
元々個人は現実には社会的に存在する。だから始めから個人には公共性がまつわりついている。個人の書く小説に公共性が関わることは自明の理である。そこで、この小説には公共的な価値があるから読んで欲しい、と言うことはできるだろうか?この小説には僕が読んで公共的な問題について描かれていて、それを解決しようと努力する姿が参考になるから、あなたも読んでみてはいかがかと推薦することはできるだろうか?
できるといえばできるのだろうが、それは正当なことで批判されることではないのかと、自分に納得が得られるか問いたいのだ。もっと言うと私が推薦する小説を公共的な価値を期待して誰かが読むだろうか、と言う問題である。お前の言うことを誰が聞くものかとほとんどの人は言うだろう。もっともなことだ。推薦者は既に社会的な権威を持っている人にしか資格がないだろう。
私がもし権威を持たれることがあり得るとしたら、それはごく小さな仲間内のことだ。仮にその仲間の中で私に公共性のある小説のリストを求められたら、私はどんなリストを作るだろうか?この便利な仮定法は、英文法を学び直ししている時に気づいたのだが、勝手に何の根拠もなく仮定することは日常で出来るのだった。仮定とはあるべき未来の先取りだ。未来の先取りをこのブログでやればいいのだ。
取り敢えず、そのリストに挙げるべき小説をここに書いておきたい。
- 黒い雨(井伏鱒二)
- 複合汚染(有吉佐和子)
- 流れる星は生きている(藤原てい)
- 苦海浄土(石牟礼道子)
- 大地の子(山崎豊子)
- 源氏物語現代語訳 (角田光代)
- 境界の町で(岡映里)
- 個人的な体験(大江健三郎)
- イワンデニーソヴィチの一日(ソルジェニーツィン)
- 姫ヶ生水(松田昌子)
- 老人と海(ヘミングウェイ)
- ジャン・クリストフ(ロマン・ロラン)
- デミアン(ヘルマン・ヘッセ)
- 神聖喜劇(大西巨人)
- 百年の孤独(ガルシア=マルケス)
- JR上野駅公園口(柳美里)
- 地上生活者(李恢成)
- レイテ戦記(大岡昇平)
上記リストを選んだ根拠の一つは、地方に住む市民または学生の、生きる糧になる内容を含んでいるというものだ。言わばノーベル文学賞の日本地域版とでも称する価値のあるものと考える。選考委員は作家ではなく、一般企業を定年退職した人または地方公務員を退官した人等である。