生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

「姫ヶ生水」伝説講演会に向けて

ここには正直に書くことにしている。正直の中には明確に、ありのままにも含む。そして、できるだけ基の方から書きたい。基とは根本の欲求のことだ。今書こうとしていることの根本にある欲求は、かねてから持っていた書くことについての探究心に関わっている。どのようにして小説が出来上がるのか、作者はどのようなことを考えて、準備して書き出すのか、作中のリアリズムはどのようにして保たれるのか等々。それを今身近に質問できる機会が訪れようとしている。

私は来月、「姫ヶ生水」という小説の作者、松村昌子さんに講演してもらうようお願いして了解をいただいている。その小説は私にとって初めての等身大に思える作品だ。主人公は普通の人で村人である。作者は80近くなってから初めて小説を書き始めて5年ほどかけて書き上げて自費出版したという、文学とは長い間縁のなかったお婆ちゃんだ。本職は九谷焼の作家だ。陶芸家のプロであっても、文学では素人である。しかし自費出版した本は、令和4年度金沢市文学賞をいきなり受賞したのだ。私は男性だから等身大といっても違いはあるし、小説を読む方は等身大かもしれないが、書く方は能力の差は歴然とある訳である。ただこれまで読んできた作家に比べると、自分との距離が格段に小さいというに過ぎない。ノーベル賞芥川賞直木賞作家ではなく、地方の職業作家ではない一文学愛好家の市民文学賞受賞者という、距離にあるわけだ。

実際講演をお願いした際、少しも上から目線で接せられる気がしなかった。むしろ読書会の皆さまにお話できるような者ではありませんと固辞されたくらいだった。このことが十分な時間をかけても講演会を主催する意義があると考える理由になっている。

もう一つ等身大と思えるのは、作品そのものが映画などの時代劇や歴史小説ではなく、小説形式は取っているものの民間伝説の物語だということにあると思われる。ある意味作り物の芸術やフィクションではなく、伝説とはいえ実際にあった話をもとにしていると信じられるのである。だから歴史の事実を知りたいという欲求に応えられるし、自分の祖先をたどって自分のアイデンティティを探ろうという欲求にも応えられる。それが学問としての歴史や民俗学を研究しなくても小説を読むだけで得られるのは、忙しい現代人にも受けるのではないかと思う。ただ580ページの長編小説を読むのはしんどいという意見もあるだろう。実際、文体は読みやすくスラスラ進むのだが、登場人物が多く次から次と新しい登場人物が出てくるとついていくのにしんどい面はあった。

この「姫ヶ生水」という小説は、果たして歴史小説か現代小説かについて考えてみたい。例えば司馬遼太郎の「翔ぶが如く」や「坂の上の雲」は歴史小説であるが、大正時代半ばから終戦直後までを扱った「姫ヶ生水」は、歴史小説という感じがしない。かといって現代小説かというとそれも違う感じがする。「姫ヶ生水」の17,18,19,20章は主人公好子の義理の父の昔話を書きとる設定で、荘園間の争いから生き延びるために山を越えてついに「白糸の滝」を見つけ、そこで山の衆としての営みを始める話や、そこから200年後多分架空と思われる「霞谷村」が形作られるなった頃、平家の落人が逃げ延びてきてその中の照姫が杖を突いて湧き出た泉が「姫ヶ生水」伝説の元になったという話がある。さらに600年後、平家落人の末裔と山の衆の末裔が協力して山を切り開き、一大事業「都大路」を成し遂げる伝承話が書かれる。これらの話は小説中小説のような入れ子構造になって面白い趣向になっている。これらの章のためもあってか、歴史小説とは違う印象がするのだろうと思われる。おそらく文学のプロからすると中途半端な小説ということになるのかもしれないが、地元の普通の読者からすれば、身近に等身大の歴史が学べるエンタメ小説になるかもしれない。