生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

ヘーゲル読書を趣味とする

かつてサルトルが哲学のぼくの関心の中心だった。ぼくの学生の頃にマルクス主義に引き込まれ、政治的な動きが身近になった時に自分の立場をどこかに持つ必要があった。サルトルマルクスを最後の(のりこえ不可能な)哲学としていたが、マルクス主義が客観的情勢論から主体が自動的に要請されるような論理に思えたのに対して、サルトル哲学は個人の自由な思想の立場を提供するものに思えた。自分の参加や連帯を問う領域が拓けているように思えた。中国では政府のコロナ政策に反対するデモに参加すること自体が身を危なくさせているが、ぼくの学生時代の状況はそこまでではないものの、身の危険はあった。だから中途半端な考えでいると自分が動かされる恐怖があった。ある場面では沈黙を守り通せる理由を持つ必要があった。というか実際は沈黙するしかなかったのが実情だったが。さて、思わず学生時代の回顧に戻りそうになったが、ここで考えたかったことはサルトルマルクスではなくて、ヘーゲルが今のぼくにリアルに迫ってきている現実についてだ。

 

ヘーゲルを少しは理解できるようになって初めて社会(近代市民社会)の本質が見えてきた、というのがそのリアル感の実体なのであるが、そもそも社会の仕組みが現実の重みを持って把握できていなかったという感慨がある。経済や個人や階級や国家といった概念の中に、市民社会が丸ごと抜けていた感じがするのである。だから権利や義務や法律などがどこか身に馴染まなかった。日本国憲法についても身についていなかったと思う。そんな意識状態で昔のぼくはよく社会批判めいたことを言っていたものだと、呆れるばかりなのだが事実そうなのだから仕方がない。ただヘーゲルを読まなければ社会批判をしていけないという意味ではもちろんない。しかし読めば自覚ができ、自分の判断に自信が持てるようになるというに過ぎない。これから死ぬまでヘーゲルヘーゲル研究者の本を読んでいこうと思っているが、それは英語学習と同じで趣味にしてしまえばいいということだ。

 

ぼくがヘーゲル哲学を学びたいと思わせた本は「ヘーゲル精神現象学』入門」で、著者は加藤尚武である。いやより正確に言うと、その本でヘーゲル弁証法が分かったような気になったというのが近い。加藤尚武の解説が全て理解できたというわけではないものの、ヘーゲルの哲学の方法論がつかめた気がした。それは自己意識を実体(生きていてあらゆるものの土台を作る)としたことで、自己意識は自分の自己意識と同じで、読んで理解できればヘーゲルの絶対知まで認識できる、と思えたからだ。その絶対知はそれまでの西洋哲学の到達点とキリスト教ギリシャ以来のヨーロッパの教養を吸収したものになり、一つの哲学書西洋文化が分かる内容を持っていると。ぼくにとっては特に教養という文化貯蔵庫を手に入れる魅力があった。ちょうど源氏物語が日本文化の貯蔵庫であるように、西洋ではヘーゲルの「精神現象学」なのだ。 実際の『精神現象学』の翻訳書は加藤尚武からは出ていなかったので、図書館から金子武蔵訳の「精神の現象学」と長谷川宏訳の「精神現象学」を借りて少し読んでみた後、牧野紀之訳の「精神の現象学第二版」を読んでこちらの本を継続して読むことに決めた。その後、研究書として竹田青嗣の「人間的自由の条件」を半分ほど読んで、ヘーゲルから学ぶことがどうしても自分には必要であると思えた。

 

竹田青嗣の本は、サラリーマン時代に社長からのパワハラで脱落しかけた時に「自分を知るための哲学入門」を読んで救われた経緯があり、ヘーゲルでも同じように導かれたという縁を感じる。竹田青嗣フッサール現象学で哲学が分かるようになったということで知られているが、それよりもヘーゲルから決定的に学んでいることが、「人間的自由の条件」から分かる。彼がフーコーすら批判できているのは、ヘーゲルの「絶対精神」を深く認識できているからだ。ついでに言えば、マルクスさえヘーゲル左派から出発しているものの、ヘーゲルの「道徳的自己意識」をつかみ損なっていると批判している。このような批判の立場が持てたのは、実は柄谷行人の「トランス・クリティーク」の方法から影響されているとぼくは推測している。

 

ぼくが哲学に魅力を感じるのは、他人を恨んだり、羨んだりしなくなることだという気がする。徹底した自己責任と言えるかもしれない。そうかと言って他人に冷たいのではなく、他人は自分とは違う考えや生き方をするものだと芯から感じている。違っているからどんな人にも興味を持って接することができていると思う。ただ尊大な人間や勘違いしている人間には冷淡であるし近づかない。哲学が好きな人間は、四六時中考えごとをし、自然や世界や社会や生物や物質などを対象に、あるいは意識や時間や存在といった概念さえも対象にし、区別のカテゴリーを使って分析したり、面白い仮説を立てて思考実験したりする。

 

ただ考えるにもきっかけが必要で、何の刺激もなく考えることはできない、つまり刺激があって気づくことができ、気づきから得られることを素材にして考えるのだ。また静止した対象も主体もありえなく、静止したように見える場合も「動的均衡」が働いていて、何かの拍子に動き出すと考えておかなければならない。まさに諸行無常であり、どんなに苦しい状況下に置かれていたとしても「夜明け」は必ず来るのである。

 

ここで自分という存在を哲学的に考えてみたい。自分の今は知識の量や質に限界があり、未熟であって真理からは遠く閉ざされていると思う。だから見えていない世界や法則に無自覚的に囚われていると思う。知らないばっかりにおそらく損していることが山ほどあると思う。ヘーゲルが言う精神とは社会意識のことだと牧野紀之は解説していたが、ぼくという人間はこの社会意識に足りないところがかなりあるような感じがする。社会とは他人の坩堝であって、ぼくはこれまで他人を避けて生きてきた人間だという自覚があるからだ。ヘーゲル哲学を今になって関心が向き出したのはそういう事情があると、ぼくは自分を分析している。

 

先に、自己意識がヘーゲルと自分をつなぐキーワードだと書いた。自分の中にある自己意識に頼って、そこから一旦は外に出るが、外で経験したことを内容として再び自己に帰ってくる思考法がとにかくぼくの性に合っていた、と思える。強引に名付けるなら、ヘーゲルは引きこもり症の哲学なのだ。引きこもりでありながら、客観性をうまく保って社会や国家の本質を自らに取り込んでいる。ぼくにとってはこの方法で、社会つまり「法の精神」を取り込むのが当面の目指すところだ。ここで「法」という訳語はかた苦しいが、長谷川宏によれば「現実の社会のうちに実現されている、本当の正しさ、正義」ということだ。まだかた苦しいが、要するにみんなが納得するルールのことと思えば法のイメージとの違いが分かると思う。

 

ぼくはこれまでの自分の生き方を振り返って、社会との距離を何とか作って自分の内面を守ってきたという感慨を持つが、それは社会との付き合いを最小限にしたかったからだ。しかしそれは社会が分からなかったからだと思う。社会の本質がつかめられれば避ける必要もなく、ノンプレッシャーでいられる。そういう目論見があってヘーゲルを読んでいる 「精神現象学」の序文のところで、ヘーゲルは自分の新しい哲学を始めることの自信満々の宣言や、世界そのものが新しい歴史を踏み出すのと同じくらいの壮大なビジョンを語っている。自分の哲学はカントやフィヒテ、また自分より先に出世したシェリングの哲学を乗り越えるものだと説明している。もう自分を越える哲学は現れないとも取れる絶対知に至る哲学体系が、その出発点ですでに見えていた。それこそ哲学という分野での最高のドラマであろう。ぼくはそのヘーゲルの熱気の千分の一くらいの微熱に当たって、自分のドラマが始まりそうだと感じたのだった。

 

ぼくのドラマはもとより哲学という学問にはない。それは流石に無理というものだ。ただ自分の人生というフィールド内ならば、哲学(的)思考を取るのは自由だ。ヘーゲルとぼくと共通する部分が一つだけある。このHatena Blogの読者の人がいたら気づいてくれるだろうか、、、それは、自己意識である。どんな人にも自分という意識はあるからだ。ヘーゲルは自己意識から国家や宗教まで意識の経験の旅を進めるが、ぼくは今のところ自分の人生内に留めておくことにする。でも今の現実社会や世界が戦争に向かうとなったら国家まで否応無しに、前もって国家にまで意識の旅を進めることになるだろう。それはともかく、平和な自分の周囲に限定しても市民社会については市民としての自己意識はすでにもっているはずだ。この市民としての自己意識は、何とも心もとなくあやふやになっているのがぼくの現状だから、とりあえずはぼくのドラマは市民としての自己意識の経験の旅をすることだ。