生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

とにかくオタクっぽいのがいい

何だかあの小説家とのトークで、自分が地域の文化人の端くれにデビューした気がするのである。また何と大袈裟なことをいうものかと君は呆れるだろうが、ぼくの最近の外に向かうウキウキした気分のその原因を辿っていくと、そうとしか思えない。ぼくは初めてお客さんのこちらの話を傾聴しようとしている顔を見た。あの会場で初めて接する同年輩の未知の友人たち。お客さんの目というものに生まれて初めて接したのだから、多少大袈裟になってもいいんじゃないか、、、そこで得たぼくの構えのこころ触りを覚えておこう。その構えのままこれから他者と接していこう。まずは読書会の仲間から。そして将来の地域の読書会仲間に、デビューした「読書オタクのチョイワルじじい」として。明日は読連協の総会だ。そこを自分の舞台だと考えよう。

それなら「読書オタクのチョイワルじじい」は、どんな小説を読んでいるのか?大江健三郎村上春樹ではないよね。三島由紀夫でもないし、中上健次でもない。オタクはメジャーなものは敬遠するはずだ。渋いところで坂上弘莫言垣根涼介ってところか。イタロ・カルヴィーノやジュール・シュベルヴィエルや李良枝ってところかな。とにかくオタクっぽいのがいい。これから趣味の探求に出かける必要がありそうだ。ますます文学にハマるように、、、

読書オタクのチョイワルじじい

私小説は何処か知識人っぽい主人公の話ばかりで隔たりを感じていた。そこで企業小説や会社員小説の方に関心が向きだしている。身近かに感じる小説は感情移入がしやすいし、書く側に立って追創造することもできそうだ。それはかなりセミプロの領域に入るか、マニアックな趣味となって定年後の楽しみとして最適だ。マニアックなオタクというのも楽しそうだ。少なくとも既に一般大衆から個性的な人間になっている。個性的な人間というよりは面白人間というところだろう。テレビに出るコメンテーターや、ラジオに出るパーソナリティのように成れれば、一つの存在として社会的に認められる。読書家という存在もあるが、偉そうで気に入らない。読書オタクのチョイワルじじいというイメージがいいかもしれない。それをセルフイメージにしよう。今のぼくは多少知識人っぽいかもしれない。むずかしい哲学書や文芸評論が好きな感じを漂わせているかもしれない。それを辞めて背伸びせず、等身大を意識してみようと思う。自己イメージが自分を変えるキーになることは昔マーケティングでよく勉強していた。復習の意味で実践してみようと思う。

 

とことん自分に感ける

このブログ空間、何を書いてもどのように書いてもOKという、書いた文字がそのままフォントに再現されて目に前に現れるという仕組みに、今更ながら便利なツールが出来たものだと感心する。このお陰でぼくはいつでも好きな時に思うままを綴ることができる。それはどこまでも自分に感けられるということだ。自分をどうして捨てる必要があるものか。自分がなくてどうして実感を持って今を生きている、と言えるのか?たとえ誰かのために生きたとしても自分を捨てる必要はない。自分のままにその誰かに接すればいい。自分という器または形式に留まって、最大限に表現すればいいのだ。それが真に生きることであり、何処までも自分自身でいられる生き方であり、それを死ぬまで貫けばいいのだ。これまで名を成した偉人や成功者は皆そうしてきたと思う。だから少しも遠慮はいらないのだ。まあ別に有名になる必要もないけどね。

さて、改めて自分というものを発見したぼくは、過去の無名の、ということは未だ自分を発見していなかった未明の自分を救わなければならない。それは一般に自我が目覚める頃の私なのであろうか?ここで一般という常識には従わず、やはり自分の心の声に従おう。ぼくは高校2年の夏の終わりに10日ほど登校拒否したことがあり、その時の嵐のような精神状態をこの探求の端緒としたいと思う。その時、世間の流れに初めて抗った自分がいた。それを端緒とすることに意味がありそうだと、心の声は言ったのだ。

「その時」ぼくは休みたかったのに周りの世界はお構いなしに進むのは、大胆にも理不尽であると考えたのだった。ぼくは世界を止めたかった。後にもう成人して随分経って、世界を止めるには自分の心の中に世界を作ればいいと覚醒することになるのだが、それまでは長い試行錯誤の旅が続くのだった。それをできるだけ思い出してこのブログに綴って行こう。

未明の自分を救うという課題は、自立の概念で問題を立てることができると思う。まずはその内実を明らかにすべきだろう。ぼくは高校2年の登校拒否の時点までは自分をまだ形成できてなかった、とみることができる。自分の意志で自分の行動をコントロールできなかった。そもそも自分をコントロールできることさえ思いついていなかったように感じる。学校にいくというルーティンは自分の意志でないのではないか、とその時どうしようもなく気づいてしまったのだと思う。そうだ、一度止めてみようと思い立ったのだ。その頃は、自分と周りの環境を作っているシステムは一体化していたと思う。漠然とシステムに気付いたのかもしれない。そのシステムとは世間的な人生行路のことで、その時点で親や学校やマスコミなどから躾けられた常識に違いない。当時を思い起こしてみると、ぼくは10日ほど登校拒否の後、そのシステムと妥協を図ったのだった。つまりお決まりの大学進学のコース上に自分の生きる道をとりあえず置こうとしたのだ。現実には美大への進学を決めることで、自立という課題の解決を図ったのだ。だが、それは真の解決ではなかったと今では断言できる。むしろ真の自立から逃げたのだ。

真の自立とはどういうことか?それは残念ながら今の自分では分からない。だから70歳という人生の晩年近くなってから自分探しをしていることになっているのだ。何と高校2年の登校拒否時点の未解決が70歳の今に直結しているのだ。

 

真の自立とはどういうことかを分からないなりに考えてみよう。自由に思うままに考えることは許される。まず既に経済的自立については済んでいる。38年間働いて退職金と年金で暮らしている。つまり経済のことは考えないで済んでいるということだ。次に精神的自立について、それが何を意味するか考えてみる。自分の思考が何かの支配下にあるかとか、表現の自由が脅かされているかとか、人間関係で誰かの圧力を受けて感情的になって不自由な身になっているとか、等々が全くない状態が精神的自立状態と思える。現在の私はそれも済んでいると思う。ただ一つあるとしたら、社会的に無力な存在であることが虚しく自責の念のような感情に囚われるのは、自立していないこととして認めてもよい。しかし、それは実存的自立の問題で人生論や哲学の問題として向き合っているし、無力感のまま済ましているわけではない。そう考えてくると、真の自立とは社会的自立のことと思える。現役で働いている時にはできていたが、退職または引退すると真の自立からは離脱するということなのだろうか。だとしたら、今目指すべきはやはり何らかの形で社会的に有用な活動をして、再び社会的自立を目指すべきなのだろう。やはり、地域の公的な読書会を設立する活動をすべきなのだ。

 

公共としての読書

読書の公共性は市民として最低限備えているべき教養と考えてみる。例えば、太平洋戦争の終戦日は、1945年、昭和20年8月15日であること。広島への原爆投下日は、8月6日、長崎へのそれは、8月9日であること。沖縄慰霊の日は6月23日。これ位の日は最低限記憶しておくべき日だと思う。そのように最低限読んでおきべき小説というのを挙げてみたい。ぼくは長い間、満州についての知識がなかった。かつて日本も欧米帝国主義列強の真似をして植民地を持っていたことの知識が具体的になかった。日本史の授業でさえ習わなかった。ぼくの高校3年時の授業では江戸時代で終わっていた。だから小説で補う必要がある。藤原ていの「流れる星は生きている」を必読書として挙げた。次に知るべきは、終戦間際の8月8日にソ連が突然宣戦布告して、満州樺太から逃げ遅れた日本人をシベリアに抑留した歴史だ。それも小説で補う必要がある。辺見じゅんの「収容所から来た遺書」を挙げておきたい。またその時、帰国することができずに中国に取り残されて孤児となった日本人がいた。山崎豊子の「大地の子」によって知識を得て記憶すべきである。

以上、3つの作品を挙げてみたが、これはしばらく前までは誰もが読んで知っているような部類の本だったと思う。ところが今の若い人はそういう知識があるだろうか?自分のことをあげて恐縮だが、ぼくはこれらの小説をまだ読んでいない。お恥ずかしい限りだが、もし知らなかった人がいたらこの記事にも少しは意味があると思う。

 


 

公的な読書会の課題本リスト案

地域の公的な読書会をつくるという私の後期人生目標を具体化するのが、このブログの中心的なテーマになりつつある。とにかく毎日その目標のことを考えて、具体化のために思いつくことを書いていきたい。今日は公的に読むべき小説のリストを作成してみたい。このリストは当然ながら随時更新していくつもりであるが、今日のところで相応しいと思える小説を挙げてみる。この読書会は定年退職者が第二の人生を悠々自適に過ごせるためのこころの拠り所となる、というのがクライテリアとなる。また、読書会という現実的な制約の中で、短編または短編連作集中心となるのもやむを得ないとする。

  1. 「新しい人よ眼ざめよ」の中の1編 大江健三郎
  2. 千年の愉楽」の中の1編 中上健次
  3. 「姫ヶ生水」の中の1章 松村昌子
  4. 「白い犬とブランコ」莫言
  5. 「沖合の少女」ジュール・シュベルヴィエル
  6. 「移動祝祭日」の中の1章 アーネスト・ヘミングウェイ
  7. 「由煕」 李良枝
  8. 「土くれ」ジェイムス・ジョイス
  9. 「イワンデニーソヴィチの一日」ソルジェニーツィン
  10. 流れる星は生きている」藤原てい

これ以上思いつかないので、今日はここまでとする。

 

文学読書クラブをつくる

地域の公的な読書会を設立したいという目標を作ったが、読書会といっても文学でなければならないし、文学は純文学ではならないことが、目標を吟味していると明らかになった。定年退職後に知的好奇心が衰えてない人が求めるのは、野々市市みたいな地方都市だと「寿大学」のようなものしかないのが現状だ。今日、公民館で今年度の生徒募集のパンフレットを見てきたが、写っている人たちは確かにイキイキとしていたが、どこか我々のような文学好きの顔とは違って見えた。彼らは先生の講義を熱心に聴くような方々だ。ぼくの求める仲間は、先生の話は聴くけれど大いに自分の話もする。読書会は誰か先生のような一人の話者がいるのではなく、参加者一人一人が話者なのだ。そこは小さいようで大きな違いのように思える。本を読んで話ができるのは、主人公や登場人物に自分を投影して参加できるからなのだ。そんなことは寿大学では経験できない。自分を持っている人と自分がないか捨てている人との違いかも知れない。文学好きの人はどこかで自分を捨てきれないでいるのかも知れない。ぼくはそういう人の方に魅力を感じる。

計画を達成する前提のはなし

ぼくの残りの生涯を賭けた目標の達成計画の中で、地域の(公的な)読書会を設立というのがある。あるというより最近決めたばかりなのであるが。この計画にはさまざまな問題が埋まっていることが予想される。読むべき本の選定をどのように行うかなどはすぐ考えられる問題だが、もっと自分の達成能力がそもそも問われる課題をまず取り上げてみたい。それは開催する読書会にどう人を呼び込むか、そのために必要な魅力ある課題本の紹介という主体的な能力問題がある。果たしてぼくは予め未読な人に向けて自分が推したいと思う本の要約と魅力ポイントを文書化できるだろうか。それができなければ元より、そんな生涯を賭けた目標など絵に描いた餅にすぎなくなる。言わば目標の前提条件のようなものだ。

読んだ感想などはこれまで書いてきて馴染みである。しかし読んだ本の内容を要約するのは感想などとは別の能力だ。要約の中には、あらすじも含まれる。あらすじはかねてから苦手だった。おそらく完全と言っていいほどに全体を理解把握できていないと、要約は無理なのではないかと思われる。だったらまずそれから能力を研いて身に付けなければならないのではないだろうか?

一歩一歩進むのが現実的であるし、最初の一歩が肝心なのだ。そうだ、まずその事を考え続けよう。