生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

公共としての読書

読書の公共性は市民として最低限備えているべき教養と考えてみる。例えば、太平洋戦争の終戦日は、1945年、昭和20年8月15日であること。広島への原爆投下日は、8月6日、長崎へのそれは、8月9日であること。沖縄慰霊の日は6月23日。これ位の日は最低限記憶しておくべき日だと思う。そのように最低限読んでおきべき小説というのを挙げてみたい。ぼくは長い間、満州についての知識がなかった。かつて日本も欧米帝国主義列強の真似をして植民地を持っていたことの知識が具体的になかった。日本史の授業でさえ習わなかった。ぼくの高校3年時の授業では江戸時代で終わっていた。だから小説で補う必要がある。藤原ていの「流れる星は生きている」を必読書として挙げた。次に知るべきは、終戦間際の8月8日にソ連が突然宣戦布告して、満州樺太から逃げ遅れた日本人をシベリアに抑留した歴史だ。それも小説で補う必要がある。辺見じゅんの「収容所から来た遺書」を挙げておきたい。またその時、帰国することができずに中国に取り残されて孤児となった日本人がいた。山崎豊子の「大地の子」によって知識を得て記憶すべきである。

以上、3つの作品を挙げてみたが、これはしばらく前までは誰もが読んで知っているような部類の本だったと思う。ところが今の若い人はそういう知識があるだろうか?自分のことをあげて恐縮だが、ぼくはこれらの小説をまだ読んでいない。お恥ずかしい限りだが、もし知らなかった人がいたらこの記事にも少しは意味があると思う。

 


 

公的な読書会の課題本リスト案

地域の公的な読書会をつくるという私の後期人生目標を具体化するのが、このブログの中心的なテーマになりつつある。とにかく毎日その目標のことを考えて、具体化のために思いつくことを書いていきたい。今日は公的に読むべき小説のリストを作成してみたい。このリストは当然ながら随時更新していくつもりであるが、今日のところで相応しいと思える小説を挙げてみる。この読書会は定年退職者が第二の人生を悠々自適に過ごせるためのこころの拠り所となる、というのがクライテリアとなる。また、読書会という現実的な制約の中で、短編または短編連作集中心となるのもやむを得ないとする。

  1. 「新しい人よ眼ざめよ」の中の1編 大江健三郎
  2. 千年の愉楽」の中の1編 中上健次
  3. 「姫ヶ生水」の中の1章 松村昌子
  4. 「白い犬とブランコ」莫言
  5. 「沖合の少女」ジュール・シュベルヴィエル
  6. 「移動祝祭日」の中の1章 アーネスト・ヘミングウェイ
  7. 「由煕」 李良枝
  8. 「土くれ」ジェイムス・ジョイス
  9. 「イワンデニーソヴィチの一日」ソルジェニーツィン
  10. 流れる星は生きている」藤原てい

これ以上思いつかないので、今日はここまでとする。

 

文学読書クラブをつくる

地域の公的な読書会を設立したいという目標を作ったが、読書会といっても文学でなければならないし、文学は純文学ではならないことが、目標を吟味していると明らかになった。定年退職後に知的好奇心が衰えてない人が求めるのは、野々市市みたいな地方都市だと「寿大学」のようなものしかないのが現状だ。今日、公民館で今年度の生徒募集のパンフレットを見てきたが、写っている人たちは確かにイキイキとしていたが、どこか我々のような文学好きの顔とは違って見えた。彼らは先生の講義を熱心に聴くような方々だ。ぼくの求める仲間は、先生の話は聴くけれど大いに自分の話もする。読書会は誰か先生のような一人の話者がいるのではなく、参加者一人一人が話者なのだ。そこは小さいようで大きな違いのように思える。本を読んで話ができるのは、主人公や登場人物に自分を投影して参加できるからなのだ。そんなことは寿大学では経験できない。自分を持っている人と自分がないか捨てている人との違いかも知れない。文学好きの人はどこかで自分を捨てきれないでいるのかも知れない。ぼくはそういう人の方に魅力を感じる。

計画を達成する前提のはなし

ぼくの残りの生涯を賭けた目標の達成計画の中で、地域の(公的な)読書会を設立というのがある。あるというより最近決めたばかりなのであるが。この計画にはさまざまな問題が埋まっていることが予想される。読むべき本の選定をどのように行うかなどはすぐ考えられる問題だが、もっと自分の達成能力がそもそも問われる課題をまず取り上げてみたい。それは開催する読書会にどう人を呼び込むか、そのために必要な魅力ある課題本の紹介という主体的な能力問題がある。果たしてぼくは予め未読な人に向けて自分が推したいと思う本の要約と魅力ポイントを文書化できるだろうか。それができなければ元より、そんな生涯を賭けた目標など絵に描いた餅にすぎなくなる。言わば目標の前提条件のようなものだ。

読んだ感想などはこれまで書いてきて馴染みである。しかし読んだ本の内容を要約するのは感想などとは別の能力だ。要約の中には、あらすじも含まれる。あらすじはかねてから苦手だった。おそらく完全と言っていいほどに全体を理解把握できていないと、要約は無理なのではないかと思われる。だったらまずそれから能力を研いて身に付けなければならないのではないだろうか?

一歩一歩進むのが現実的であるし、最初の一歩が肝心なのだ。そうだ、まずその事を考え続けよう。

公民館読書会との出会い

共働きだったぼくたちは同じ年に会社を退職する約束だった。妻が3歳下なのでぼくは定年後2年間は延長して同じ会社で勤めることにしていた。ところが2年目に配属になった部署はあまりにも過酷な環境に思えて妻との約束を破ることになった。当然猛反対を受けたがそれを押し切ってもぼくは退職したかった。妻が60歳になる歳まで(ぼくが62歳から63歳になるまで)の1年間は昼間は自分だけがフリーの状態になって、それまでの会社勤めの環境から激変することになった。今から思えば思い切って一人で出来ることに挑戦すればよかったのかもしれないが、環境の変化に体がついていかず左手が肩から上に上がらなくなったり、左上半身が帯状疱疹になったりした。またその時だけ脊椎管狭窄症にかかった。それは3ヶ月ほどで自然に治ったからストレスが原因だったのかもしれない。精神的に安定しなかったのだ。その1年をもがいて何とか立て直そうとしていた時に、公民館の読書サークルに出会った。

当然といえば当然なのだが読書サークルには、ぼくよりお年寄りの方々ばかりでそれも男性は二人だけで圧倒的に女性が多かった。最初の見学の日、その読書会はあまりにも雑談が勝手に進行するので、大変失礼ながら幼稚園児が騒がしくしゃべっているような印象を持ってしまった。先生役の人がピーっと笛を吹いて静止しなければどこまでも続くようだった。だから最初の印象は相当ひどいものだった。でもぼくは目上の人を大事にする古い教えを受けていたので優しく見守ることにした。その第一印象は数年するうちに徐々に改善していった。ぼくも中に入って少しだけ論理を通すことにしたら勝手なおしゃべりは勢いを弱めだしていった。課題本も読みやすく、分かりやすい日本の短編小説が殆どなところに、ガルシア・マルケスカフカシェークスピアを持ち込んだりした。それでも何とか受け入れて貰えた。ここが凄いところでぼくも続けることができた要因になる。

 

のんびりダラダラから計画的に実行するへ

今私は野々市市の読書会に属している。いちメンバーだったのが会長になって2年経った。会長となると県の読書会の副会長に、会長から請われて昨年なった。一人で本を読んでいるのと、読書会仲間で読んでいるのとどちらがいいか、ここで突き詰めて考えてみたい。読んだ感想を仲間と共有する楽しさは、これまでの読書会で大いに味わってきた。それで満足していれば何も考える必要はない。ところが読書会が市や県の生涯学習課の支援や補助(開催場所や講師依頼の補助金)を受けることになると、単に本を読んで感想を述べ合うという活動以外の雑用が発生してくる。公的な活動として指導されるわけではないが、何となくそういう圧力を受ける。図書館協議会のメンバーになったり、会員を増やすための情報発信やプロモーションのようなことに頭を使うようになる。毎年講演会を企画するようになると、講師や会場手配や各種団体に後援のお願いやらの活動が発生するのである。そんな事をし出したらゆっくり本も読めなくなって来る。だから読書会活動と一人で読書をするのは、異なるのである。

一方、一人で本を読んでいた頃は、孤独だった。一人部屋に閉じこもって読書するのは意外と続かない。どうしても外出したくなるが、仲間がいないので一人で散歩するくらいだった。読んだ感想をブログに書いてネット上に公開することで、幾分かは孤独から逃れられる。リアルほどではないが、ゆるく仲間ができたりすることもある。だから覚悟を決めて、独学スタイルで読書をするやり方を深掘りすることもできるだろう。目標を決めて計画的に進めればいいのだ。

さてこれから後期高齢者の仲間入りで残りの時間を無駄にしたくない思いが募るときに、どちらかを選び、やるのだったら徹底的にやりたいと思う。そうだ、徹底的にやりたいと思うようになったのだ。定年退職後ずっとのんびりダラダラとやるのがよかったのだった。それがあの講演会の成功から人生の態度が変わってきたのかも知れない。

他人を書くことに気づいた

自分だけが作り出せる小説を書きたい。それこそ自分が生きた印になるものだ。今はそう思う。これまで読んできた小説のような小説は書けない。何が小説という表現形式で、必然のものかは分からない。とにかく書きたいことがなければならない。私が小説と思っている方法で、書きたいことが何かあるはずなのだ。生きるってどういうことかを書きたい。目的や目標が生きるには必要だということは身に沁みて分かっている。目標が少しづつ実現していく様子を書きながら体験したい。それが生きるってことだと思う。問題は目標が何かということだ。つい最近講演会の司会として講師との応答を経験した。とにかくその講演会を成功させることが、目標だった。その目標は達成された。講演会を無事終了させた時の満足感は、生きてる実感があった。その実感をもっと味わいたいと、次の目標が欲しくなったのだ。最初に書いた、自分だけが作り出せる小説を書くことは目標として大きすぎる。もっともっと細分化しなければならない。そして書くだけではダメで第三者に読んでもらう必要がある。自分以外に誰かを巻き込まないと経験にならない。できれば多くの読者を獲得したい。満足できる結果が必要だ。どうしても何処か読者が集まっているところへ投稿する必要がある。そしてもう一つ条件がある。これまでの自分の傾向として、いきなり実行しないで色々調べたり、やり方を勉強しようとしたりする事を禁じなければならない。この目標の場合、すぐに実行することが求められる。とにかく書くことだ。とにかく書いて投稿まで持っていくことだ。

さて次の問題は何を書くかだ。私は自分の事しか書けない。肉親や配偶者でさえよく分からないので書けない。何か不思議な得体の知れないものなのに自分に近しく当然のように接してくる、温かみのある存在ではある。生物学的存在であるとともに社会的存在であり、愛情というもので繋がっているが絶えず不安定に陥りやすくて流動的というか活動的である。今書いたことは小説の言葉ではない。小説の中では生きていなければならない。生身の人間として描かなければならない。会話や態度や心理というもので表現する必要がある。そうだ、今気づいたが、分からなくても書ける気がする。何かが外に出て伝わればいいのだ。気持ちを通じて他人を存在させることができる。これは、ずっと自分しか書けないと思い込んでいただけかもしれない。