生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

他人を書くことに気づいた

自分だけが作り出せる小説を書きたい。それこそ自分が生きた印になるものだ。今はそう思う。これまで読んできた小説のような小説は書けない。何が小説という表現形式で、必然のものかは分からない。とにかく書きたいことがなければならない。私が小説と思っている方法で、書きたいことが何かあるはずなのだ。生きるってどういうことかを書きたい。目的や目標が生きるには必要だということは身に沁みて分かっている。目標が少しづつ実現していく様子を書きながら体験したい。それが生きるってことだと思う。問題は目標が何かということだ。つい最近講演会の司会として講師との応答を経験した。とにかくその講演会を成功させることが、目標だった。その目標は達成された。講演会を無事終了させた時の満足感は、生きてる実感があった。その実感をもっと味わいたいと、次の目標が欲しくなったのだ。最初に書いた、自分だけが作り出せる小説を書くことは目標として大きすぎる。もっともっと細分化しなければならない。そして書くだけではダメで第三者に読んでもらう必要がある。自分以外に誰かを巻き込まないと経験にならない。できれば多くの読者を獲得したい。満足できる結果が必要だ。どうしても何処か読者が集まっているところへ投稿する必要がある。そしてもう一つ条件がある。これまでの自分の傾向として、いきなり実行しないで色々調べたり、やり方を勉強しようとしたりする事を禁じなければならない。この目標の場合、すぐに実行することが求められる。とにかく書くことだ。とにかく書いて投稿まで持っていくことだ。

さて次の問題は何を書くかだ。私は自分の事しか書けない。肉親や配偶者でさえよく分からないので書けない。何か不思議な得体の知れないものなのに自分に近しく当然のように接してくる、温かみのある存在ではある。生物学的存在であるとともに社会的存在であり、愛情というもので繋がっているが絶えず不安定に陥りやすくて流動的というか活動的である。今書いたことは小説の言葉ではない。小説の中では生きていなければならない。生身の人間として描かなければならない。会話や態度や心理というもので表現する必要がある。そうだ、今気づいたが、分からなくても書ける気がする。何かが外に出て伝わればいいのだ。気持ちを通じて他人を存在させることができる。これは、ずっと自分しか書けないと思い込んでいただけかもしれない。