生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

私たちはどのように生きてきたのか

もう人生の終盤に来ていてこれから何かを始める気持ちを持つ事自体が難しい。これから新しい局面を迎えるにしても、これまでのことを一度きちんとした結果として見ておきたいという気持ちがある。いったい私は、これまでどのように生きてきたのかを一望して、こうだったと感慨というものを一つでも持ちたいと思う。あなたはそう思った事はないだろうか?

もう10年以上前になるだろうか、義理の父が肺がんになり余命1年ほどという宣告を受けた。その話を聞いて病院へ見舞いに行った時、どういう話をすればいいか分からなかった。もし自分がその立場に置かされたら、余命をどう過ごすかを考える時とにかくこれまでの自分の人生をどうだったか結論を出したいと思ったのだった。このように生きたという証拠を自分なりに掴んでおきたいと考え、義理の父もそうだろうと何となく感じていた。ところが、彼は自分の過去のことはほとんど語らず、できるだけ余命の間も迷惑をかけない事ばかりを考えているようだった。ああ、そうなのかとそれがぼくにはショックで悲しみとして残っている。

自分で自分の過去を総括するのはとても困難なことなのだ。おそらく過去の記憶を書きつけるという行為がなければ、記憶はほとんど蘇らないまま忘れ去られてしまうと思われた。私の父は認知症で、晩秋のみぞれ降る寒い日に自宅前の側溝に落ち、流されて発見された時には冷たく意識がなかった。突然の事故死だったから当然のことながら、自分の人生を振り返る余裕もなかった。

読書によって、他人の人生を読んで自分の場合を想像してみることはできる。自分だったらこうしたであろうと他人の生きざまを借りて考えることはできる。自分と似たような境遇の主人公の場合だったら、追体験することもできる。そこで何らかの感慨を持つことは疑似的にできるであろう。しかし多くの場合、小説の登場人物は特別の人ばかりで平凡な自分と比較するには適さない。

定年退職してからの私は、好んで普通の人物が登場する小説を読んできた。また自分史と称して自分の生い立ちから記憶を辿って書いてみたこともある。昨日も、三田誠広の「超自分史のすすめ」を読んでみて、自慢にならず、愚痴にならず、気負わず、自分に距離をおいて書くことが要諦だということだった。まず、そういう自分の心境に立つことが自分の過去を正当に持つことなのだと思われた。