生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

その小説との出会い

このブログを書こうとしている今は、土曜日の午後だ。定年後の毎日が日曜日となっている今でも、土曜の午後には何かウキウキして華やかな雰囲気がどこかにするのは嬉しいことだ。働いていた頃の土曜日の開放感がまだ何処かに残っている。その開放感が今では貴重な感覚で、それこそ人生の幸福度を示すものと思える。この雰囲気を何かで表すことが出来たらと思うのだが、言葉にするのはむずかしい。むしろ、その気分のまま回想する中で浮かんだ1scene で代用できるかも知れない。、、、まだ若かった母に手を繋がれて、幼い私が繁華街にあちこちショッピングに引き回されていた時の、雰囲気が表れてきた。母は食器を見て回るのが好きだった。タオルとか箒とかの生活用品もあったかも知れない。母は能美郡国府村鍋谷という村から結婚して金沢に出てきて、街をぶらつくのが楽しみだったのだろう。

何故そんなことを思い出したかというと、小説「姫ヶ生水」に出てきた霞谷村は国府村鍋谷がモデルだったことが作者からの手紙で明らかになったからだと思える。それを知って思わずその小説が身近に感じられて、その本を読んだ時に感じた懐かしさの根拠も納得できた。ここまでその小説との出会いが特別のものになるとは、今から思うと不思議である。その小説は長編で出版されたのはまだ半分だということだ。後編は戦後の数年経ってからだという。私が生まれた昭和28年はその最初の方に書かれてありそうだ。