生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

幼年期から青年期まで

これまで書いてきたblogとは反対に、自分が歩んだ暗い現実を避けずに直面することにする。ぼくの幼年から少年の時期は、今から思うととても寂しい思いをしていたことを認めざるを得ない。父は日曜日も働いていてどこかに連れて行ってもらったことがほとんどない。中学の時友達になったU君は、あまりにぼくがどこへも行っていないのに同情して、夏休みに親戚のある生駒に連れて行ってくれたことがあった。小学校の間は、児童公園や近郊の小高い山に一人で「遠足」に行っていた。正月といっても家の中はしんみりとしていて、雪に閉ざされて寒い部屋でこれから続く長い冬に耐えていた記憶がある。ごくわずかにデパートに連れて行ってもらった時に、安倍川餅を買ってもらって帰ってきて食べるのが嬉しかったぐらいだ。隣の家の姉弟にはそれぞれひな祭りと端午の節句の行事がしっかりとあったが、うちの兄弟には何もなかった。欲しいとねだったおもちゃのGUNは一桁値段が違っていて、とても買えないと言われてもなかなか諦めきれなかった。学校は楽しかった。先生は優秀な人が多かったと思う。遊べることがあまりなかったから勉強するしかなかった。それが救いだったと思える。ぼくを最終的に救ったのは高校へ入ってから、世界文学全集を読みだしてからだった。現実の他に違う世界があることを夢中になって吸収した。現実の世界しか知らなかったら、暗い家の中で自殺を考えていたかもしれないと思う。

 

 

中学生の頃の自分を思い出していた。自我が芽生える頃がほとんど中学の頃と重なるように思えるのは、多分中学に入って環境が変わり、小学校の時とは全く違うタイプの同級生との接触が自分に向き合うきっかけを作るからではないだろうか。小学校の同級生は同じような仲間だったのに、中学では日常的に違いに気づかされたり、場合によっては圧倒されたりする。

ぼくの時代の中学にはいわゆるガキ大将がいた。ケンカに強く大柄であったり、体格は普通でも骨っぽくガッチリしていた。ぼくは小学校では女の子と自然に溶け合って遊ぶような優しい男子だったが、どういうわけか彼らのような不良男子に親近感を覚えた。幾分虚勢も張っていて今から思うと、強いものにすり寄っていたのかもしれない。「デミアン」に出てくる、年上の不良に盗みを強要させられるようなことまでは流石になかったが、同級生には家がヤクザ関係者だったり、ケンカがあると呼ばれて出て行くような舎弟まがいの少年もいた。いわゆる施設から来た野生の少年もいて、ぼくはどうしてなのかわからないが、その施設に遊びに行ったような記憶がある。

強い者に取り入ろうとするばかりではなく、ひどく変わった所をもつ者に魅かれる性格がぼくにあったものと思われる。でもそういう少し危険な同級生や同窓生に近づくことはあっても友達にはならなかった。彼らの方もぼくのような「堅気」の少年には違和感があったのだろう。ただ親が学校の先生をしている不良の一人とは仲が良くなった。ケンカに出かけてはいくが、ウケ狙いをするオチャメなところもあってそれがどことなく安心感を与えたのだろう。彼とはその後ぼくが結婚するまでは付き合いが細く続いていた。

 

自分の海外への憧れの源が中学の時のアメリカンポップスへの沈潜にあることを思い、その頃のヒット曲をYouTubeで聴いていた。PPMの曲が今のぼくの心にも沁み渡った。あの頃は世界がとても小さかった。ほとんどどこへ行くあてもないから部屋に閉じこもっていた。特に冬の間はスキーにも行かなかったから、音楽を身いっぱい受け止めていた。自分の部屋は屋根裏のように天井が低く暗かったが、狭いということはなかった。一人で心地よく自分の世界に閉じこもっていたので、世間の動きから遠ざかっていただろうと思う。その頃、世界はベトナム戦争パリ五月革命、中国文化革命など激動のはずだったのに、地方の田舎町には何の影響も及ぼさなかった。それらの外の動きを受信するにはぼくは幼く、情報を理解する知識が全くなかった。 中学3年の夏休み、地方都市にいて遊ぶことを知らずに職人の家庭で育ったぼくは、不良仲間の誘いにはのらず、ストイックに勉強する習慣の中で過ごすしかなかった。親は日曜もなく働きづめだったので、結果的な放任主義に任せられた。たしか主要5教科の夏休み中の分厚い受験強化参考書を1冊買って、毎日勉強していたと思う。その甲斐あってかその後の成績はどんどん上がって、高校志望校は上方修正された。そしてクラス上位3位以内が許される志望校を受験して合格した。

 

合格するとストイックに勉強する習慣を自ら捨てて、世界文学全集を読みふけった。自分の定年後の生活をイメージする時にまず出てくるのが「読書」である。何故「読書」がでてきたのかというのは、定年にならないと本が思いっきり読めないという思いがあるからだ。いわゆる読書三昧が許されるのは会社を離れてでないと無理だという実感があった。逆にいうと読書三昧という環境とか、その精神的自由感を味わいたいために定年を待ち望んできたと言ってもいいくらいだ。自分の人生の中でこの「読書三昧」と「精神的自由感」を一時期満喫していたことがある。私の高校時代である。 私は受験勉強を嫌って本ばかり読んでいた。私にとってその時が乱読の時期で、よく作家が年少の頃の乱読体験を披瀝しているが、私は作家程の読書量はなく、選択した職業も書くこととは特別関係ないということからも推測できるように、ごく普通の乱読コースである。つまり、世界文学全集を片っ端から読んだのである。その全集というのは比較的長篇の小説が多く、私の読書傾向として長篇好みがあるのはその時の読書経験による。 >ゲーテの「若きウェルテルの悩み」「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」から始まり、ヘルマンヘッセの「車輪の下」「ナル チスとゴルトムント」、スタンダールの「赤と黒トルストイの「復活」、ドストエフスキーの「罪と罰」「未成年」「白痴」「悪霊」、ロマンロランの 「ジャンクリストフ」「魅せられたる魂」、ジャン・ジャック・ルソーの「孤独な散歩者の夢想」、カミユの「異邦人」「ペスト」、サマセットモームの「月と 六ペンス」と順番はこのとおりか記憶が定かではないが、約一年半程の期間はこの乱読の小説とともに私の高校生活があったのである。

 

 

今、「小説とともに私の高校生活があった」と書いたが、これは単にレトリック(修辞)として書いたのではない。実際そのような生活であった気が今この歳になって振り返ってみるとするから、事実としてそうであったと書いたのである。つまり、必要以上に現実を深刻に考えたり、恋愛至上主義になって女性崇拝的な片思いの結果、失愛に苦しんだり、逆に優柔不断でつきあってくれた女の子を苦しめてしまったり、天真爛漫の時期があるかとおもうと自責の念で極度に落ち込んだりと、決して平和な心境にはなれずに過ごした記憶が今でも断片的に思いおこされる。 私は幾分ラスコールニコフに似ていたし、ロッテのような女性に憧れ、ムルソー気取りで夏休みを過ごし、ジュリア ン・ソレルのような自信家になってラブレターを書いて赤恥をかき、ジャン・クリストフとともに長く暗い冬を情熱的に過ごし、カチューシャのようなちょっと 斜視の女性に恋して一度だけデートしてもらったり、トルストイにかぶれて白樺派のようにヒューマニズムが最大の価値だと回覧日誌に書き込んで担任の白井先生にからかわれたり、「悪霊」に出てくる政治活動家の議論のように学生運動を自分の内面に引き込んでしまって軽いノイローゼになり10日ほど不登校を経験したり、何かにずっと取り付かれていたかのように高校生時代を過ごしたのだった。

 

今思うと何故これ程までに読んだ小説に影響されて実生活が振り回せれてしまったのか、不思議に思える。実生活が受験勉強という現実離れした学生身分だったからというのはあるだろうが、それでもそのころの私は無知ゆえに大胆な行動がよくとれたと感心するくらいである。安定した生活というものにまだ出会っていなかったし、多分心は荒れていたと思う。その時ぼくは生まれたまま自然に成長してきた純朴な自我というものを失った。少年の殻が壊れて、生まれた街を出て、見知らぬ世界にどんどん引き込まれていった。その当時の世界文学全集の世界とは、ドイツ、イタリア、フランス、イギリス、ロシアのことだった。そこにはアジアやアメリカやアフリカはなかった。

高校2年の後期になってとうとう乱読がたたって授業についていけなくなった。その頃にはドストエフスキーの「悪霊」を読むような、小さな「政治」少年になってデモに参加することもあった。ただそれは何かに憑かれたようにやっていたように思える。決して確信があって行動してたわけではない。心は虚ろで満たされるものはなかった。 10日ほど登校拒否をしていた。最初の危機が訪れていた。その当時は危機の自覚はなく、ただ現実から逃れようとばかりしていた。とにかく何も考えずに休みたかった。担任の西能先生には同情されて心配をかけてしまった。たしかどこかの空いた教室で二人で話し合ったように思う。先生はぼくを一人の人間として扱ってくれた。どこかで先輩というか同志というかそんな感じがあり、優しい目ではあったが力のこもった眼差しだった。君が考えたくはないのならぼくからは何も言うことはない、とおっしゃった。本当はぼくと議論したかったのかもしれないと後年振り返ることがあった。 自分がどういう風に生きてきたのか、何故そのようにしか生きられなかったのか、今原因をたどる想起に身を委ねていて、思い当たることを発見した。ああ、そうだったのかと今にして初めて合点がいくのは、過去のことではあっても前進なのではあるまいか?

 

たしか高校の1年の時だから1969年4月から1970年3月までになるが、現代国語の教師から読書の指導を受けていた。(ぼくの方から相談に行っていた)ぼくは今までこの先生には好感をずっと抱き続けていた。何しろ今でも思い出すくらいだから、この先生からの影響をぼくの人生でプラスの方にずっと入れてきていた。ところが、時代を改めて振り返るとこの時期高校でも学生運動が起こっていて、金沢でも反戦高連と反戦高協という組織があった。この先生は学生課のような部署にいて、生徒を政治から遮断する役割を果たしていたように思えるのだった。ぼくに白樺派の文学やロマンロランを読むように勧めていた意味が、そのように受け止められることに今気づいたというわけだ。

現代国語の授業は熱がこもっており、どちらかというと熱血先生だったと思う。ぼくは先生の朴訥な語り口が好きだった。あなたは、ベトナム戦争に加担する時の政権に対するラディカルな批判から、我が高校生徒の耳目をふさぐことを親ごころから担っていたのですね、、、ぼくは約一年間は素直に従っていたが、その後真逆の方向に進むことになるのは、あまりにもぼくを時代錯誤の状態に置こうとしたからじゃないだろうか?

 

もう稼がなくてもなんとか生きていける定年退職者の身分になって、働いて生活していく人生が終わってみると人生が終わりに向かうには早すぎて、身軽になっている現在が漂っている場を作っている感じがする。定年後の生活イメージが定着しないのである。一つの人生が確実に終わったのにまだ先が見通せないほど長い気がする。本当に思い通りの生き方ができるはずなのに、始められないでいる。69年間の人生は特別の試練を幸いにももたらさなかった。

父は83歳まで生きたから、ちょっとした事故死だったけれどそれほど不幸ではなかった。戦争で悲惨な体験をしたわけでもなさそうだった。ぼくは戦争を体験せずに済んだ世代に属している。餓死寸前になったり、肉体の限界まで酷使する状況に置かれたり、大量に血を見たり肉片が散らばったりしているのを見ることはなかった。 その代わりというのも変だが、平穏すぎて空虚を感じる、締まりのない日常というものは嫌という程経験している。何事も起こらない毎日が続き、何事もやろうという気にならない時間が山ほどあった。ぼくの周りには刺激的な人物があまりいなかった。学生運動がほとんどぼくの人生で唯一といっていいほどの刺激だった。

 

あれはちょうど大学に入って最初の夏が訪れるころだった。大学の隣の野鳥公園でスケッチしていると声をかけられて、タイミングよくガールフレンドが出来かけたことがあった。今から思うともったいない気がするが、ぼくは硬派だったので大学に数人いた活動家と思われていたグロープに近づいていく決心をしたのだった。(ぼくは何事も同時進行するやり方は不器用で出来なかった)何となく空虚に耐えられなくて、世界との熱い関係に入っていきたい衝動に駆られていたような気がする。三島由紀夫の自決があったのが高校2年の時で、連合赤軍浅間山荘事件のあったのが高校3年で、大学一年の時に岡本公三のテルアビブ乱射事件があって、物騒な雰囲気が時代の空気を染めていた。元全共闘だった人がこの時期に運動から離れていったと述懐しているのを読んだことがあるが、ぼくの場合、今から振り返ると、訳のわからない暴力に対する幻想を掻き立てられて離れるのではなく逆に近づこうとした。少なくとも今日のISのような暴力とは異なる何かが感じられていた。(現在起こっている暴力には残忍性しか感じられない)世界には自分が全く想像もできないことが起こっている、今まで自分は何も知らずに来た、もっと今起こっていることを知り、理解できるように勉強していこう、というふうに自分の衝撃を受け止めたように思う。

三島由紀夫連合赤軍のことを調べようと思ったわけではない。何が主張されていたかとか、それまでの経緯のようなことには関心がなかった。ただ通常の強盗事件とか殺人事件とは違う動機があり、それは彼らが自分の命をかけても成し遂げたいとする思想につながっていた。その思想に興味があったかというとそれも違う。思想そのものではなく、日常性を打ち破るに至るエネルギーの根本となるものというか、「特異点」に興味があった。その時それが起こってしまう時代性は何なのかという、抽象性にあったと思う。ぼくが青春時代にあった時の時代の切迫感はどうして存在していたのか、というふうに表現できるかもしれない。

 

行き詰まっていた。

 

ちょうどぼくも将来の職業選択がどうしても決められない迷いの時期に当たって、行き詰まっていた。何か訳がわからないけど漠然と全てが悲しかったのを覚えている。ちょうど宇多田ヒカルのデビューアルバムの全てが悲しかったように。(宇多田ヒカルとは時代が異なるが、彼女がどうしてあの頃悲しかったのだろうとコメントしていたのを聞いて、自分も同じと感じたのだった。ついでに言うとぼくの世代ではユーミンの「ひこうき雲」の悲しみに近いかもしれない。)

どうしてあの頃悲しかったのだろう?高校3年の同級生 Aとは東京と金沢で進路が分かれて離れ離れとなったわけだが、金沢で最後のきちんとした別れ方をしなかったこともあってしばらくして手紙をもらうことになる。その日、自宅から歩いて通える美大から夕方帰宅する時に、なんとなく手紙が来る予感がしていて、自宅玄関横の郵便受けに果たして予感通りに手紙があったのをやはり来たと感じたのだった。手紙には東京での住所と電話番号が記されていた。その他の内容については忘れてしまった。そしてぼくがどんな返事を書いたかも忘れてしまっている。

ただ、それまでの彼女の自分の態度には幼稚な部分があったのを恥じて、今は成長して対等にぼくと接することができると伝えて来たというような、漠然としたかすかな感じがある。 今から思うと高校の時にぼくから見くびられたように感じて、それが許せなかっただろうと思う。ぼくのせいもあって受験勉強が思うようにできなかったのを、東京の塾に通って挽回するのに張り切っていたかもしれない。あるいは高校の時は本当の自分を見せる余裕がなかったけれど、もう本来の自分に戻っているからそういう自分を見てとアピールしてきたのかもしれなかった。それに対して自分の受験に差し障るから付き合いをやめるようにして遠ざかった自分に負い目を感じていたぼくの方は、相談することなく一方的に距離を置いていたことを謝った気がする。(だんだんその当時のことが記憶に蘇ってきたかもしれない、、、) ぼくは学生運動に関わりだした頃、東京で集会があると連絡を取って再会することになる。初めて東京で会った時は、ぼくが東京に不慣れなこともあって彼女の方が話を先に進めることが多かった。東大赤門の本郷キャンパスの学食を食べに行って、ぼくが東大生でなくても大丈夫なのかと訊いたら、全然大丈夫よと東京人になったように答えていた。

 

 

自分の運命を自分で、自由を確保しながら拓いていく、ということが果たしてできるものなのか?そのためには運命という状況をまず認識できなければお話にならない。その状況が何で構成され、そのうち具体的で目に見えるものがあれば、それを感じるだけの感性がなくてはならない。ぼうっとして鈍いぼくには、言われた言葉の意味の方ではなく、言わずにほのめかす時の表情や仕草の意味に気づくという芸当は不可能に近い。69年間という人生でそのように自分のそばを通り過ぎていく、未明の運命というものがどれだけあったことだろう。例えば、運命というに相応しい状況が半分ぐらい訪れているのに、ドラマにあるような、直接会って本当のことを打ち明けるということができなかった。会うことなくそのまま別れてから、取り残されることがどんなに辛いかを思い知った。

大学進学が入試の結果を見て確実になって、ともかく心が晴れ渡った経験を味わっていたころ、付き合っていた同級生のAから電話をもらった。受験に失敗して浪人することに決め東京に行くから、と別れの電話だった。本格的に受験勉強を始めた3か月くらい前からその彼女とは疎遠な関係になっていた。Aは東京に行く前にぼくの声を聞きたくなって電話してきたと思われ、予定した報告をしたあと、ぼくに今読んでいる本は何かと訊いたのだった。ぼくは真継伸彦の「光の聲」と、ただ事実だけをそのまま答えた。Aは自分も同じ本を読もうとしたのかもしれない。しかしその小説の内容は、僕たちの関係に深い溝を刻むような運命を描いていた。(もちろんそれは読んで初めて分かることだったが)Aの父は共産党員で、いわゆる専従で組合から給料をもらう身分だった。 Aはぼくにとって運命的と思える存在だ。何か運命的要素に客観的事実が必要だろうか? 

高校3年の時の同級生であるに過ぎないならそう呼ばないはずだが、ここであれこれ事実を振り返るには少し気が重い。ただ平坦なぼくの人生の中で登場する、平坦さにおいてさほど違いのない人たちとは異なる部分があり、それがいつまでも忘れがたくさせている。どこか気取った喋り方をするのは村上春樹の小説中に出てくる登場人物に似ているかもしれない。プライドがあり自分の世界観の中で自信に揺るぎがない。つまりひとつの存在であり、自分の影響力を試して存在感が増すのを見るのが好きなエゴイストかもしれないと疑うこともあった。絶大な父と対等かそれ以上のキャラクターで対応するくらいの力を付き合う相手に求めるところがあった。無情であった頃のぼくがAを冷淡に扱い、後になってかけがえのなさをAに見出した時、逆にAから冷淡な扱いを受けた。傷つけ合うと同時に引き合う力を感じ、ライバルのように尊重し合うような関係だった。

小説「光る聲」にはAの父と同世代の共産党員の大学教授が登場し、戦中には特高の転向強要で瀕死の状態に遭い、1956年のハンガリー動乱時にはソ連の侵攻に反対する決議を日本共産党に出すという歴史的事件を描いている。世界史にはおびただしい死者が記録されており、20世紀には二人の人物が死者を量産する究極の悪を執行している。ヒトラースターリンだ。ハンガリー動乱を鎮圧したソ連に明確に反対する反スターリン主義を普通の私たちの歴史に登場させるには、「光る聲」に登場する共産党員やAの父のような人たちの苦悩を受け止め、乗り越える必要があると思っている。

ぼくは女の子に振られて悲しかったのではない。三島由紀夫連合赤軍のメンバーの「絶望」を感じて悲しかったのではもちろんない。でも確かに時代の空気が悲しかったのであり、その感じ方はぼく一人ではなかったと確実に言えると思う。悲しみの質でいうとサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」に流れる悲しみに近い感じがする。まず孤独と周囲との疎外感が悲しみを作っている。そうだ。疎外という言葉があの時代流行していた。疎外という概念があの時代多くの思想に生きようとしていた人々(われわれ)の心を支配していたのだ。ぼくは美大に進学していて、デザイナー志望が集まる、職能資格を得るための学校に入ってしまった。受験倍率7倍だったので受かった時はそれなりに嬉しかったのだが。毎日、4年分のメニューの中から課題が与えられて、ぼくのような社会派の勉強をするにはもちろん向かない環境だった。

 

ぼくが美大を受験する前の年は、県内でも進学校として知られる高校にもかかわらず美大に入学した先輩が14,5人いた時代だった。ほとんどがインダストリアルやコマーシャルデザインの方で、油や日本画や工芸の方には進まなかったように思う。(途中で転校した先輩もいたらしい)コマーシャルでも横尾忠則糸井重里のようなスターが活躍し始める頃で、社会の仕組みに取り込まれない暑い空気感も感じられた頃だった。ユーミン多摩美大、村上龍武蔵美出身で、必ずしも美大だから美術関係の進路に進むとは限らないのではあるが、地方の美大からでは、音楽や文学関係の進路に進むには才能が多方面に創発される刺激に乏しかったかもしれない。 ぼくは受験選択を間違ったかもしれないという思いから自分を懐柔させる曖昧さに逃げ込んでからは、デザインに縛られずに、つまりはデザイナーの道を放棄して芸術一般のフリーパスポートを手にしたことにして、片っ端から興味のあるものをかじることにした。ジョン・ケージ高橋悠治の現代音楽を聴き、マルセル・デュシャンフランク・ステラやデ・クーニングなどの現代美術に触れるようになり、シュールレアリスムやロシアフォルマリズムの文学や美術「運動」というものにも興味を持った。針生一郎美術手帖に載っている評論家の論文にも刺激を受けていた。つまりはあの時代が吐き出して発散していたエネルギーを貪欲に吸収しようとしていた。その頃のぼくは心に飢餓を抱えていたので時代のカオスで満たす必要があったのだと、今では思っている。

今の時代には抒情や情念が全く欠けていると思う。ぼくも引きこもっていた時期があるが、ほとんど誰もが引きこもりの経験があり、ないのは鈍感でどうかしていると髪の長い文学少女に馬鹿にされていたものだった。アンニュイという言葉が生きていた。今の時代、引きこもっていると病気扱いされて社会から取り残された敗者のように見られるらしい。だいたい僕らは現代社会を否定する道理を語る哲学者や評論家に取り囲まれていたようなものだった。社会の方が間違っているのだから平気でいられた。ぼくが美大受験を決めたのは、美大祭の前日に仮装した男女が乗ったオープンカーが、香林坊を夢のように通り過ぎたのを目撃したからであった。金沢の人は昔から普通じゃない人には寛容だった。そういえば金沢の開祖である前田利家も若き頃は織田信長にも勝るとも劣らない傾奇者(かぶきもの)だったらしい。そのオープンカーを目撃したのは1970年の頃だった。 ぼくは大学3年次を留年している。とても傲慢に聞こえるかもしれないが、その時これまでずっとまあまあ順調に来ていたので1年ぐらい猶予期間をもらってもいいのじゃないかと考えて、本当に自分の支えになる世界観を築こうと自主留年したのだった。作家の三田誠広は高校2年次に1年間休学して、自分の立脚点を作ろうと思想書などを読みまくったそうだが、能力の差はあるだろうがぼくも同じことを考え、資本論などを苦労しながら読んでいた。三田誠広はその頃の日々を「Mの世界」という小説にまとめているが、ぼくにはそのような力がなかった。

資本論ヘーゲル弁証法の論理で古典経済学を批判的に再構成して、資本主義を内側から分析したもので、読むには厳密に学問的態度を要求される。読んだことのない人は、マルクス共産主義の黒幕のような狂信的で怖いイメージで捉えている人もいると思うが、レーニンのような革命家ではなく、学者肌の人だったとぼくは思っている。ただし影響力は絶大で歴史を塗り替える革命や国家の独立の源泉を作った世界史的超重要人物には違いない。 ぼくが1年間だけ関わった学生運動では当然マルクス主義の世界観をとるわけだが、実践を重要視するのでレーニンの「国家と革命」をいきなり勧められたりした。また黒田寛一という革命家の理論書も「社会観の探求」とか「現代における平和と革命」などを基礎的なテキストとして学習会がもたれたりした。これまた学生運動をあまり知らず、ニュースで報道される「悲惨な」事件でしか知らされていない人にとっては、これらの本で洗脳させるようなイメージを持つかもしれない。確かに教養として勉強だけするわけではないので、究極的には革命家としての理論を身につけさせるものだと思うが、たえず自分がどう行動するかの判断を育てるもので革命家になるならないは自由なのだ。流石にぼくはその気はなかったが、先輩にはその気があった。 現在のぼくはその頃学んだことは教養として残っているわけだが、学生運動を離れて普通の社会人としてその教養が支えになっていなくもないと思っている。

 

生のクラシックコンサートに行けるような身分ではもちろんなかった。道端に置いてあった森永アイスクリームのベンチを勝手に拝借して、アイの所は「愛」に塗り替えて置いてあるような薄汚い美大生の下宿部屋で、バッハのシャコンヌが鳴り響いていたのは割と立派なオーディオ装置からだった。壁には「パリコミューン100周年政治集会」のポスターが貼られていて、そのタイトルはランボーの詩から引用された語句で飾られていた。パリコミューンのキナ臭い噴煙の上がる蜂起空間とバッハの無伴奏パルティータは、モノクロ映画のワンシーンのように「似合って」いた。その下宿部屋は小さな祝祭空間だった。それはぼくの心に重くて内臓的な疼きを沈殿させた。もう45年以上経っても忘れられない想い出になっている。